阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年10月26日
「信仰の確信と恵み」
ローマの信徒への手紙1章16-17節

 人は本来、物事を信じて生きるものです。人は、物事が信じられなくなると生活ができなくなります。いちいち毎日の食事の内容を疑って食べる人はいないのです。どこかのレストランで食事をする時も、「この食べ物は食べて大丈夫ですか」と確かめる人はいません。電車に乗る時でも、この電車は事故を起こすかどうかを確かめる人はいないのです。A・シュバイツァーは絶対に飛行機に乗らなかったといわれています。飛行機が確実に安全であると信じられなかったからです。電車が安全に運転されるかどうかが不安で、自分で確信が持てるまで長い間、やって来る電車を見過ごしてしまう人の話を聞いたことがあります。それは恐怖不安症におちいっているのであり、病的であって普通ではないのです。
 人の言葉をいちいち疑っていていては、生活はできません。言葉を「信じる」「信頼する」時に、人と人を繋ぎ、結び、その言葉が物事を成立させるのです。人の言葉が信じられない時、生活は成り立たないのです。ですから約束の言葉が守られないと、人と人との繋がり、関係は壊れます。言葉を守れない時、守られなかった時、お互いに守れない理由を明らかにして、理解し、受け入れる時、人間関係は回復されるのです。言葉は語る人の誠意、真実の裏付けによって生きるのです。ですから嘘の言葉や約束は、憎しみと対立、争いや破壊となります。
 人は、心の中の駆け引きで言葉を語っています。今日のカウンセリングに、言葉の交流を中心に分析する「交流分析」という手法があります。これは英語ではトランズアクション(アナリシス)と言って、「取引」を意味しています。言葉のやり取りによって相互の性格を分析する手法を言います。人は自己を中心に、損得で物事を図りながら言葉を選ぶのです。自己中心的な子供の頃の心、成人の心、人は計算づく、合理的に考える事があります。そして両親のように損得抜きで子供を暖かく包む思い、このPAC(ペアレンツ、アダルト、チャイルド)の特徴で性格分析する手法です。言葉は心の思いの表現であるのです。心はいつも自分を中心に考えるものです。約束が気に入らなければ受け入れないでしょう。人は、言葉と本当の思いが違い、心で駆け引きして自分の気に入る事を言葉で表現するのです。言い換えれば、人は、思いと心の二重人格であると言えます。人の心は駆け引きに明け暮れ、時として許されない嘘、人を傷つける言葉、果たせない約束、思ってもいないお世辞、自分の利益を無意識に計算しながら生きているのです。ヤコブ書に「舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」(3:6−8)と記されています。舌を通して人の心の罪深さを表しているのです。使徒パウロは、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ7:15−24)と言っています。孤独な自分が正しく生きることのできない弱さと悲しさを告白しているのです。
 16世紀に宗教改革を成し遂げたマルチン・ルターは、様々な過ちや罪が心に深く根づく自分が許されるために、ローマのセント・マリヤ教会の石段をひざまずいて上る苦行を通して、罪の許しと平安を得られるという修行をしながら、「正しい者は信仰によって生きる」すなわちハバククの2章4節、「神に従う人は信仰によって生きる」という御言葉を示されるのです。中世の教会は聖書も人々の手になく、教会で教えられる事をひたすら信じ受け入れて従っていたのです。ローマ法王の裁可で教えが決まり、生活に適用されるのでした。当時、ローマのサン・ペトロ聖堂の建設のために膨大な募金を集めていたのです。ルターは、贖宥(免罪符)を売って募金を集めていたテッツエルという修道士の、「ささげるお金の『チリン』という音こそ天国の扉があく音である」というようなすすめの言葉をドイツのウイッテンベルグ教会で聞き、「聖書にはそのようなことは書いていない」と確信しました。「正しい者は信仰によって生きる」(義人は信仰によって生きる。口語訳)という言葉に立って、根本から聖書に帰り、聖書に従って信仰を立て直さなければならないと決心するのです。そして99条の信仰の問題提起をウィッテンベルグのシュロス・キルへ(城教会)の門に掲げて気持ちを表明したのです。聖書もない黙従信仰であったその時から、様々な経緯の中でルターは聖書をドイツ語に翻訳し、当時活版印刷ができて聖書が印刷されるようになり、一般の人々に聖書が読まれ始めるのです。
光のないところでは道が見えません。人間の心の底に巣食う暗黒の自己欲、誰にもわからない自分の心の罪悪、「この死せる体に巣食うものは誰か」と呻く罪悪の思いから解放される命、力こそ「福音」である事をイエス様に出会って発見するのです。
 ユダヤの律法の慣習では、モーセの律法を中心に様々な規定を厳密に守ることに天国への約束があるのです。律法を守れない、知らない、実践できない人は穢れ、神のもとに数えられないという、差別と悲惨があったのです。それに従わない者は恥であるのです。しかし、パウロは、「わたしは福音を恥としない」と宣言しました。福音こそ神の恵みであるのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Tヨハネ4:9)とあります。どうしようもない罪悪から人を解放するために、神は御子イエス・キリストを犠牲とされ、罪の許しの約束を十字架の死で表されたのです。神の掟を知り、守り、実践していると自負するユダヤの人々だけが永遠の命にあずかるというのでなく「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16)というのです。またヨハネ手紙T2:2節では、「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」とあり、イエス様の真理の言葉は地方を超え、国を超え、民族を超えてすべての人に贈られた良き訪れであるのです。
信仰の確信を持つところに信仰の恵みは豊かに実るのです。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(へブル12:2)

 ページのトップへ
  
2014年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ