阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年11月2日
「キリストの教会・憩いのみぎわ」
ヨハネによる福音書10章7−16節

 聖書では人を羊に譬えている個所が多くみられます。特に詩編23編の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(:1−2)という言葉は有名です。羊は自分を外敵から守る武器となる牙も角も持ち合わせていません。羊飼いに守られ導かれて生きる動物です。言い換えれば、羊は羊飼いの良し悪しに自分の存在の全てが委ねられていると言えます。「主は羊飼い、わたしには何もかけることはない。」という言葉の「主」とは、神様を意味するのであって、善意と愛に富みたもうお方である神様に養われる羊には、「何も欠ける」ことがないというのです。愛なる神様は羊を愛おしみ、守り、養い、導いてくださる事を言い表しています。
 羊は、群れで生活します。羊は、群れから離れて自分で生活する事ができないのです。人は本来、迷いやすい存在です。自分で生きる為には、生きる道を求めて、道を選び、訪ね、探していかなければなりません。それは、光のない闇夜を手探りで歩くような不安に陥るのです。そのような時にこそ、愛と慈しみをもって見守り、助け、導いて下さる神様が共にいて下さる事を、「災いを恐れない」と告白できるのです。言い換えれば自己中心になり、神様から離れ、神様を見失う時、不安の迷路をさまよう事になると言えます。神様の御心を見失う時、心に願いを起こさせ、動機を与えるのは自己の願望と欲望であると言えます。人間の心の天秤に振り回されながら、果てしない迷いが、挫折となり、混乱と係争が連鎖するのです。
 イエス様はヨハネによる福音書10章14節で、「わたしは良い羊飼いである。」と言われています。更にイエス・キリストは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(:10)と言われているのです。また、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(:9)と言われています。イエス様はご自分の事を、羊を守る「門である」と言われ、その門を通る人は「救われる」と指摘されているのです。救いとは迷いからの解放であり、自己の混迷からの回復であるのです。言い換えれば、イエス様にある平安であり、安心であるのです。ここにある「盗人」とは、まさに神に対立し、反抗する破壊の根源である迷わしの霊であるのです。神様に抗告する悪魔であると言えます。「盗人」とは、不法であり、自己欲の為にすべてを破壊するものと言えます。羊を生かすのではなく、羊を食い物にし、犠牲にするのです。
 イエス様は、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」(:11)と言われるのです。イエス様を信じる者にとって、この言葉ほど尊いものはありません。この世が神様から離れ、迷い、混乱するとも、イエス様は神として良い羊飼いであるのです。そしてイエス様が備えられる「救いの門」こそ、神を忘れ、神様を否定する混乱と争いの現実に世の光として輝くのです。「門」とは、イエス様の約束の恵み、救いの門にほかなりません。「(すべて)疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)という招きの言葉が、命の門に掲げてあるのです。
 そして、主は招きに従ってきた羊だけでなく、依然として囲いの外に迷う人々を、深い配慮をもって待ち続けられるのです。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(10:16)主の御心は、門の外の迷いと彷徨の中にある人々への祈りであるのです。
 このイエス様の「門」こそ、主が共にいて養い育てて下さり、神様の国の門口として備えられている、「キリストの教会」であるのです。イエス様は、「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われたように、その生涯を通して神様の真実の愛と救いを証しされ、十字架で人の罪の贖いとなって下さいました。義にして愛なる神様は、イエス様の十字架による身代わりの死によって、人の果てしない暗黒の罪の赦しをなされました。
限りなく「赦す」事なしに和解はなく、解決と解放はない事をお示しになったのです。その救いを受けた人々、キリストを救い主として信じた人々によって、生けるキリストの教会、神の国が証しされるのです。やがて弟子たちにイエス様はご自分の使命を託され、神の国の実現を待ち望むようにと言われたのです。「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。」(Uテサロニケ1:7)「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)。そして最後に弟子たちに、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19−20)と使命を託し昇天されるのです。弟子たちの交わりは、キリストの使命を果たす為であり、主が語られた事、行われた事、神の愛と恵みを実証する事にあり、その為に用いられるのです。それがキリストの教会であるのです。
 教会は実質的にキリストが生きておられるという証しであるのです。神の国の現実を、イエス様の言葉によって証しする交わりであると言えます。イエス様を見てはいないけれども、イエス様を信じ、従い、証しする、イエス様が今、ここに共におられて教え、導き、励まして下さる交わりであるのです。そこでイエス様に出会えるのです。イエス様の恵みを、教えを、祝福を体験できるのです。
 聖書は明確に宣言しています。「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Tコリント12:27)言い換えれば教会の一人一人によってキリストの人格を形成しているのです。そしてキリストが歩まれ、実践された神の国を分かち合いながら、その一人一人が使命を果たす事により、キリストにある一つの命に集められているのです。
 第一に、良き羊飼いが羊を生かす命の「みぎわ」、「若草の野辺」として教会が形成されなければなりません。それは神の命、聖霊によって神様の愛の臨在で教会が生かされることです。聖書は一貫して「愛のあるところに神の臨在がある」(Tヨハネ4:12)という事を教えています。イエス様の弟子が、神の愛で生きる、神の愛を実践する、そこに神の臨在があり、神様の命が息づくのです。それは神様を礼拝することから始まります。神様を信じる証しは、喜びにあります、賛美、そして礼拝で表されるのです。
 第二に、教会は召された一人一人のクリスチャンの賜物によって、生き、生かされる事になります。教会は様々なタラント、賜物のあるクリスチャンによって、一つのキリスト体として成り立つ事が示されています。「神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(Tコリント12:28)と言われています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(Tコリント12:12)
 第三に、それぞれの持ち場が、人の目には様々な見方で優劣を作り感じたりするのです。しかし、体全体にそれぞれの器官の特徴があり、何一つ優劣をつけられないことが指摘されているのです。「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(Tコリント12:20−21)。それぞれの部分が、最善に整えられて、生けるキリストの教会はその使命を果たせる事になるのです。
 イエス様が、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:12)と言われたように、囲いの外にいる羊とは、まさに、今もって神様を知らない、信じようとしない無関心な人々であるのです。まだイエス様の恵みを知らない人々も、キリストの羊の門、命の門、希望と喜びの門に招き入れる事を教えておられるのです。
 どのような人生の試練に会っても、神の恵みと憩いの水のほとり、キリストの教会があるところに、平安と再生の希望があるのです。生きたキリストの教会、緑の牧場、命のみぎわの礎になろうではありません。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
(詩編23:1−4)

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