阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年11月9日
「キリストにある真実の友」
ヨハネによる福音書15章11-17節

  様々な人との出会いと交流の中で、長い人生は続いていきます。人との出会いと織りなす生活が、物事を形作り、様々な情景となります。親族や学校や職場などでの人間関係は、様々な意味で深いつながりがとなります。親族は生まれながらにして結ばれているのですが、出会いの中で培われる友情による繋がりというものは限られます。学校での交流で、級友であったとしても、「友」としての関係はまた違うものです。職場での人間関係でも、仲間であっても「友」である事とは違うものです。
 イエス様は、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)と言われています。友は友情によって結ばれるのです。友情は、共感や信頼の情によって結ばれる人間関係や、感情を意味するのですが、その度合いによって気楽に友と呼ぶこともあります。しかし、真実の友と呼ぶ関係こそが「友」であると言えるのです。趣味や遊び、気軽な出会いで交流が始まる友達関係もあります。しかし、お互いの信頼と共感を共有し、人間として「自己犠牲」をもって交流するところに、友達関係は本来的な意味があると言えます。
 ヨハネ福音書15章の11と12節に、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とあります。「これら」というのは、15章1節から語られているブドウの木のたとえを通して、御子なる主イエスがまことのぶどうの木であり、繋がる人々に命を与え、その人生を豊かに祝福されるという約束が明らかにされています。キリストを信じる事と、その結果をぶどうの木の生育を通して教えられているのです。それはまさに「わたしの喜びがあなた方の内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(:11)と言われているとおりです。
そして、そのためにこそ「愛し合いなさい。…友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(:12,13)と教えておられます。イエス様は、人々を生かし、救い、心の虚無と欲情の罪悪の闇から贖うために十字架にかかり、苦難を通られたのです。「この方(キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Ⅰヨハネ2:2)主イエスは命と全存在を投げ捨てて「友」のために死ねるお方であり、真実の愛、真実の情け、真実の友情を示されているのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に“大きな愛”はない。」(:13)全存在を「友」のために差し出す事のほかに、どんな「愛」の証しがあるのでしょうか。主イエスはすべての人に真実の友として道を開き、手を差し伸べておられるのです。限りない無限の愛が、そこにあります。
 カルヴィンは、「神様を信じる事は自分を知る事だ」と言ったという事ですが、「自分の真実の存在」を知る事は、「生かされている自分」であり「愛されて生きている」自分を知る事なのです。神様の恵みと愛によって支えられている自分との出会いであるのです。その招きを自覚できずにいる事は、まさに心に巣食う闇の惑わしに閉じ籠る事になると言えます。今あるキリストの光に導かれ、確かな闇と罪からの贖いを体験し、主に愛されているという恵みを感謝できるのは、まさに「あなたがたがわたし(キリスト)を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(:16)とある通りです。 イエス様を通して神様のみ救いを信じ受け入れた時に、愛されて愛を知り、罪赦されて神様の恵みを知り、選ばれている恵みにより、その愛に応答できたのです。それは自分の業ではなく、神様の恵みによるのである事に気付くのです。神様のその無限の愛に生きる喜びが泉のように湧き上がるのです。
 そこで教えられる第一の事は、イエス様は「あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(:14,15
)と言われています。友と呼ばれるその意味は、主従の関係ではないのです。福音書の書かれた時代は、奴隷がいる時代で、奴隷は道具と同じで主人の意思に従って生活し、仕事をしたのです。僕はデゥーロスといって、奴隷と同じ言葉です。言い換えれば、人格が認められていないのです。自由がないのです。家畜と同じであると考えて良いのです。そのような主従の間では、主人は全く別世界の人であると言えます。生活の中で様々な出会いがあっても、義務と支配に拘束され自由のない事を示していると言えます。もちろん人間ですから、そこには情があり、情けが人間として通う事もあります。そのような間柄ではなく、「友」と呼ぶという事は、そのような主従の間柄ではありません。人間の様々な繋がりから出て来る上下関係、利益相関、人としての優劣を超えて信頼して生きる事を共有共感できる繋がりであるのです。イエス様にとって「友」とは、「その友のために死ねる」関係、命を懸けて共に生きる真実の「友情」を意味しているのです。イエス様を信じる事は、イエス様の友とされる関係であるのです。どのような時にも共にいて慰め、励まし、教え、導き、助けて下さるのです。主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われています。私は長い人生の歩みの中で様々な経済的な試練にあった事があります。しかし、どのような時にもイエス様にあって祈りの内に道が開かれ、主が守り通される経験をしました。また、良い家庭を持ちたいと願った時にも様々な試練がありながら、イエス様は共にいて最善な道を開いてくださいました。「いつも喜べ、絶えず祈れ、全てのことに感謝せよ」(Ⅰテサロニケ5:16-18)の言葉に尽きるのです。喜べるようにして下さる主が共にいて下さるのです。良き友は「友のために命を捨てる」のです。主イエス様を友として生きる喜びが約束されているのです。
 第二に、主イエスを友とするクリスチャンは、イエス様によって結ばれた友であるのです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)という事こそ、互いに主の愛に生きる道であるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(:12)そして「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネ4:12)互いの愛の中で神様の生ける御力を実際に経験するのです。マタイの福音書では、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(18:19-20)とあります。まさに、この二人この祈りのある所に主がおいで下さるキリストの教会であるのです。その二人の祈りこそ、また家庭の基礎としての祈りの姿であると言えます。その祈りのある所に全能の主が共にいまして、その願いに道を開いてくださるのです。主にあって良き友として結ばれたこの家族の祈りこそは、友情の証しであると言えます。友の契り、その祈りは可能性の道を開くのです。
 第三に、主にある幸いな「友」の素晴らしい関係は、自分達だけのものではありません。災害で苦しむ人々、災難にあっている人を目前にして、どのような人でも助けてあげようと、同情心を持つのが人間です。その被害が大きければ大きい程、関心が身近になります。主を信じて救われたクリスチャンは、神様に愛されているのに、全く無関心でいる人達の人生の終末を思う時、その悲惨さを思い、現実の生活でのキリストに無関心な人々の自覚のない悲しい人生を思います。クリスチャンはまだイエス様を知らない人々に神様の愛と恵みと救い、裁きを伝えなければならないのです。それがキリストの愛に生きる人々のあるべき姿です。まさに、イエス様を知らない人々にイエス様が友として愛して下さっている福音を伝える事が、神様の愛に生きる日々なのです。命の危機にある人が救われる喜びは、何にも代えがたいのです。友達作りこそは世界宣教の働きです。改めて「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(3:16)というお言葉を心にとめて日々の生活の中でイエス様の愛による友達作りを励もうではありませんか。イエス様の愛の実践こそは友達の輪を広げることです。それがイエス様が言われた「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とのお言葉の実践であるのです。

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