阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年11月16日
「喜びと悲しみの間のキリスト」
ヨハネによる福音書2章1-12節

 日常の生活では仕事場で、家で、人との交わりの中で思わない出来事にあって戸惑ったり、うろたえたりすることがあります。特に、その時でないと解決のつかない試練に直面した時は当惑して当惑します。ヨハネの福音書に2章にはイエス様の公生涯のはじめて神のみこの栄光を表されたと言い伝えられるカナの婚宴の出来事は記録されています。婚宴の席上を通して宴席の最中に葡萄酒が切れてしまう不始末を通して招いた家族の困惑と狼狽をまぐって、その戸惑いうと不名誉な中傷を予期する苦悩を巡る困難を通してイエス様の福音を伝える使命の初めてのメッセージがここに示されています。
 人には人生のクライマックスともいえる幸福感と喜びに満ちている経験をすることがあります。まさに、若い息子の結婚式は当人たちだけでなく、家族の喜びであり、友人とも喜びを分かち合い。親戚、地域の人々の祝福を受けるときでもあります。そして、その祝賀にふさわしい持て成しの宴を設け、来客をもてなすのです。このカナの婚礼では長い宴席を取り持つ葡萄酒が切れてしまったというのです。おそらく予期しなかった人々の盛り上がる宴会で準備の量が切れていまったのです。酒の切れた宴席は、興に入った和やかな交わりも終わりかという白々しいものになり、雰囲気を壊すことにもなります。そして、その不始末は、招いた当家への批判や、悪い評価になり、花婿や花嫁だけでなく、その家族の噂にもなり、祝いも白けて終わることになります。
 そこにはイエス様の母マリヤもいたということから、おそらく花婿、花嫁の親戚であろうと言われています。そして、イエス様の弟子たちも招かれたのです。マリヤは、身近な親族の当惑と困窮を見て共に当惑しながら、そこにイエス様がおられるのをみて、イエス様に「葡萄酒がなくなったようです。」願いを込めて何とかならないのかという思いでいうのです。
 聖書は、このガリラヤのカナでの出来事が最初の意しるしであると記しています。(2:11)おそらくマリヤは幼少のころより、イエス様の所業の中で幾たびとなく不思議な出来事に出会い、その出生の出来事からイエス様が生ける神とともにあり、神であられることを深く確信していたと言えます。
 かって「神にはできないことは何一つない。」(ルカ1:37)というみ使いの言葉を思い返していたのです。主は言われます。主イエスは言われます「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(:4)。「しかし」とマリヤは思いを続けて、イエス様の母でありながらも、イエス様が、肉親の情を超えて神としての使命を果たすことに躊躇されることを推し量りながら、現実の困窮、親族の恥じらい、屈辱とその痛みをを思い、イエス様にとりなされているのです。
 マリヤはイエス様を神の御子であると信じていたのです。早速、召使にイエス様のいわれうことを実行するように言うのです。そこにはユダヤ人が宴席の前に身を清める習いに従って39リットルも入る樽が6つも置いてあった。すでに清めのために水は少なくなっていた。イエス様は召使たちに「水がめに水を一杯入れなさい」と言われるのでした。(:7)そして「それを組んで世話役のところに持っていきなさい。」(:8)と言われます。おそらく、宴会での酒物の出し物は世話役の承認が人ようであったのでしょう。驚いたのは世話役でした。通常、ユダヤの長引く婚宴の酒宴では初めに良い酒を出して、そろそろ味が耄碌するころにはちょっと安い葡萄酒を出す習いであったのです。しかし、世話役は召使たちが水がめから持ってきた葡萄酒を不思議がったのです。そして花婿を呼んでそのわけを聞くのでした。召使はその経緯を知っていたのです。
 この不思議な出来事を通して、神様がともにおられ、その出来事を通してそこに見えない神様が、見える方となられたイエス様通して神様が生きておられるkとを信じたのです。「それで弟子たちはイエスを信じた。」(:11)とあります。それまでにすでに、イエス様に従うものとして決心しているのですが、ここで「信じる」ことによって真実の弟子と言えるのです。イエスを「信じる者」
こそ「イエスの弟子」であるのです。
 人の人生は喜びと悲しみのはざまの谷を旅するような現実を教えられます。喜びの絶頂にあるとき、一瞬にして厚いはだかる壁に苦しみ、辱められ、困惑することがあるのです。聖書の最初の示されているカナの婚宴の出来事は、現代に生きる私たちに変わらない根本的な至福の道を、神の栄光に生きるあり方を教えているのです。
 第一に、カナの出来事を通して神様恵みを知ることができるのです。知識としてでなく、生きる経験を通して神様の業に出会う、経験によって確信となるのです。聖書は活ける神様の創造を通して命と恵みの綾なす仕組みの中で人に神様の真理、人の道を明らかにされ、神様の御心を明らかにされ、記録されたのが聖書です。イエス様の母マリヤは、活ける神様の恵みに導かれ、人の知識や常識を超えた神様の取り扱いの中で、御声を聞くのです。「人にはできないが、神には何でもできる」その言葉が事実となってご自分の中に実現するのです。マリヤは「御心のなるままに」という気持ちを告白するとき、だれも動かせない神様への信頼のが確信となるのです。うろたえる親族の困窮に直面して、目前におられる神としての主イエス様に、求めるのです。
 それが、全人類への福音の糸口として御開かれている出来事であるのです。結婚、家庭の祝福、命の継続となる出来事を前に、イエス様を通して「イエス様の言葉」に従い、信じ、行うとき道が開けることを明らかにされるのです。
 第二に、奇跡は、ありえないことが起こることです。「水」がブドウ酒に代わる。自然の現象は、全てが不思議です。不思議が繰り返すと、自然、「当たり前」になるのです。しかし、同じ現象が繰り返し起こると不思議でなく、驚きでもないのです。「神は全能です」「神にはできないことはない」この聖書の言葉によれば、一回しかない現象を創造することこそ神様の業であると言えます。それを軌跡と言います。森羅万象を作り、命の根源をもって自然を生かされる神様の御業は「栄光を表す」ことにあるのです。「栄光」とは神様の満足、喜びでありるのです。神様の満足とは真実の平和、調和、融合、和解であると言えます。
カナの婚宴で神様は「栄光を現された」とあります。
 人が生きること生かされること、そこに創造の知恵と恵みがあるのです。創造の目的は人を愛する神様の愛と恵みです。カナの婚宴を通してどんな時でも神は人を愛してくださっていることを語るメッセージです。奇跡は神様が愛であることのメッセージです。
 イエス様は様々な奇跡の事象を残されました。癒し、親善の出来事、多くの人を養う奇跡、自然を鎮める規制です。ありえないことが起こるのが奇跡であるのですが、一人一人が生かされている日々の歩みこそ、神様にある愛と恵みの奇跡であることに気付くことこそ最も亜稚拙なことです。ですからクリスチャンは「いつも喜べ。絶えず祈れ、全てのことに感謝しなさい。」(Tテサロニケ5:15―17)という言葉に生きるのです。
 第三に、カナの婚宴の出来事こそ、イエス様の福音の初めであるのです。人生の祝福と喜びの時、覆いかぶさる知れをも解決し、人々を和合と喜悦の流れに差し戻し、何もなかったように祝付される出来事こそ、主を信じる弟子たちの確かな福音の雄たけびの糸口であったのです。イエス様がその生涯の終わの数年を通して明らかにされる全世界の人々への先駆けであると言えます。
 イエス様の宣教はカナの婚宴に始まり、世界の人々の贖罪、十字架の悲しみで終わります。しかし、復活の栄光の出来事を通して永遠の命と平安の道を示されるのです。いかなる時に、どんなときにも主を崇め、主に聞き、主に従い、主の栄光を崇めて進もうではないか。

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