阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年11月23日
「キリストを待つ喜び」
ヨハネによる福音書1章19-34節

 人生は生活の繋がりであり、意識する、しないに係らず、日々「待つ」事の連続であると言えます。仕事のために会社に行く事は、仕事の成果を期待する事になり、その成果が報酬につながり、それが生活と家族を支える事になります。そこに「待つ」、すなわち、「期待」する思いがあると言えます。学びにしても、研究にしても、それは共通する心情であるのです。期待する事は文字通り何かを期待する事であって、「目的」に向かう気持です。その期待感が物事に取り組む力となり、情熱となります。誰も無目的に日々を生きている人はいないのです。
 イスラエルの人たちは、モーセの律法を持ち、神に選ばれた民であり、生活の隅々まで律法を適応する事で救われると伝統的に信じていました。やがて救い主メシヤが来られて、地上に理想の神の国を建設し、救いを成就されるという伝承を信じていたのです。イエス様の時代は、イスラエルは強大なローマ帝国の支配下にあり、政治的に抑圧され、経済的搾取に苦しみ、伝統的なユダヤの習俗は踏みにじられる事が多く、民族的な自立と自由を求める内乱が頻発していました。そのような時、ユダヤの東の方の荒野にヨハネという人が現れて、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と叫ぶのでした。人々は、暗い絶望的な日々に、昔から伝承されている「メシア」、救い主が来られ、王としてこの苦境から解放してくれると期待して集まっていたのです。エルサレムのユダヤ人の指導者たちは、祭司やレビ人(神殿の下働きをする人たち)をヨハネに遣わし、「あなたは、どなたですか。」とヨハネに尋ねさせたのです。ヨハネは、「わたしはメシアではない」と言うのです。そこで彼らは「エリヤですか」と尋ねます。言い伝えられている「メシア」の来臨の前に、あの預言者エリヤが再来して、その時を告げるという事を信じていたのです。エリヤでも、伝えられている預言者でもないのに、どうして「洗礼」を授けるのですかと尋ねるのです。ヨハネは、「あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ヨハネ1:21。マタイ3:11)と言うのです。その翌日、イエス様は洗礼者ヨハネのもとに来られ、洗礼を受けられるのです。そして、言われていた通り、イエス様が水から上がられると天が開け、鳩のように聖霊の異象が起こり、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と御声がするのでした。
 そしてイエス様の公生涯が始まるのです。人々は、待ち望んでいたメシアであろうと期待します。イエス様は、神の御心が地上になるようにと祈りを教えられ、神様が活きて共にある事を示されるのです。人間がいかなる時にも神に愛されている事を多くの奇跡で証しされるのです。盲人の目を開き、難聴の人の聴力を回復し、ハンセン氏病の人を癒すという驚愕の癒しを現されるのです。湖の上を歩き、波を鎮め、5つのパンで5千人の群衆に満足を与えられるのです。人々は驚愕し、敬服し、真実の神は生きておられると信じるのでした。この超能力者こそ、積年の圧迫者であるローマの支配からイスラエルを解放し、世界を治める方、メシア、救い主であると確信するのです。しかし、長い間、神の御心として示され、信じてきたモーセの律法を基礎に、様々な生活の規定を伝承し、その律法を厳格に守り、実践する事こそ、ユダヤの社会の基盤であり、それこそが永遠の命の保証であると確信してきたユダヤの指導者は、その願いと祈りの答えがイエス様ではないかと期待したのです。
 当時、ローマの圧政に苦しみながら、ユダヤ社会では厳格な律法解釈と生活への適応が、言葉で伝承されていたので、庶民は十分理解できず、厳格に律法を守ろうとしても守り切れずに、律法を厳守するファリサイ派や律法学者などから穢れた者、罪ある者と蔑まれ、軽蔑される風潮があり、庶民は差別と偏見、滅び行く者としての屈辱に苦しんでいたのが実情でした。
 イエス様は、叫ばれました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28口語)「すべて」です。例外なしに「重荷を負って苦労している人」へ呼びかけられているのです。人間であればどんな人にも、神様の前に完全はないのです。イエス様は、律法の趣旨は神様の御心であり、人の守るべき道ではあるが、神様の真実の掟は「愛し合う」事にあると示されました。(ヨハネ13:34)。厳格に戒めを守っていても、心の中に「憎しみ」「欲望」をもつ事が人を傷つけ、奪い、殺す事の根源である事をイエス様は示されるのです。繰り返し「愛し合う」ことを教え、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Tヨハネ4:12)愛のあるところに、神が共におられるのです。愛し合うところが神様の臨在の場であり、神の愛の御心がなされるところが「神の国」であると教えられるのです。
 神様を信じるという事は、神様の愛で愛し合う事であるのです。イエス様は律法を完成されるのであって、破棄されるのではありません。しかし、実際はユダヤの律法学者やファリサイ派の人々にはイエス様が律法を無視するように思えるのです。神様にある人間の本質は「愛し合う」事です。まさに「愛し合う」事こそ赦し合う事であり、赦しには忍耐が求められます。寛容、柔和が求められるのです。律法学者たち、為政者たちはイエス様が律法を破棄する者であると断罪するのです。そして、訴え、十字架の死に追い込むのです。イエス様は裁かれながら、裁きに身をゆだね、十字架の道を受け入れられるのです。屈辱と断罪を受け入れられるのです。
 神であられるイエス様は、屈辱と敗北を受け入れ、罪の贖いとなって十字架の道を受け入れられるのです。弟子たちも、このイエス様にあって表されている神様の愛がわからないのです。それはイエス様の敗北として映ったのです。イエス様はローマを征服する神様ではなく、全人類の救いの道を開くために、愛の根本原則、真実の平和、人類の希望と救い、神様の赦しの原理を成し遂げられたのです。
 洗礼者ヨハネが、主イエスこそ「聖霊と火によるバプテスマ」をもって必ず人々の目を明らかにされると言った事が成し遂げられたのです。やがてイエス様は弟子たちに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」と言われたとおりに、十字架の死の後3日目によみがえり、最後に弟子たちへ「聖霊を受けよ」と言い残して天に帰られるのです。やがて弟子たちはペンコステの日に聖霊を受けて、イエス様が主であり、真実の贖罪の主である事を確信するのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Tヨハネ4:9)神の命、神様の清めの力、聖霊によって過去のあらゆる人間的な伝承の縛りから解放されたのです。 
 待ち望み期待した真実の解放、救い、解決の道がそこに開かれたのでした。現実の家庭の中に、共同体の中に、この世の社会の中に、世界に、真実に人が求める神の国がイエス様によって示されたのです。
人は、単に日々を「待ち望む」だけでなく、神の喜び、神の栄光、神様の意図される神の国の実現のために生かされているのです。平和の神、愛なる神が共におられるところに神の国があり、永遠の命がそこに約束されるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて神様を信じなさい。」この言葉を心にしっかり留めて「神様の愛」を信じ、イエス様を見上げて歩もうではないか。
キリストを待ち望み、キリストを信じ、神と人を愛して日々の生活を築こうではないか。

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