阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年12月7日
「来るべき我らの救い主」
イザヤ書11章1-10節

 待降節の第二日曜です。教会の長い歴史の中で、クリスマスを待つ習慣が培われてきました。ある教会では待臨節、待誕節とも言います。共通しているのは、待つ事です。イエス・キリストの御降誕を待つ事を意味します。主イエスの御降誕は、世界的な祝いであり、キリスト教国以外の国々でも祝い、互いに祝福するようになっています。1549年、戦国時代ただ中にあり、戦乱と破壊の進む日本の国で勇気ある宣教が始まりました。宣教師たちは、西洋の進んだ文明を紹介しながら、効果的な宣教をしていたのですが、打ち続く戦乱の中で秀吉、家康と政権が移ると共に禁教令が厳しくなり、島原の乱の後、キリシタン禁令で徹底的な弾圧を受けます。やがて文明開化の明治を迎え、西洋文化を全面的に取り入れながらも、禁教による社会の偏見は残ります。そして、思想宗教統制令で再び苦難の時を迎えるのです。第二次世界大戦終戦後、米国の進駐軍司令官マッカーサーは、日本でキリスト教を広めるために宣教師を募り、啓蒙したと言われています。アメリカは、教会を通して衣料や食料を送り、生活苦にあえぐ人々に配布した為に、多くの人が教会に集まったのです。しかし、社会が落ち着き、経済成長と共に生活が豊かになって、人々の心は神様から離れるのです。しかし、世間では11月にも入ると、商店はクリスマス・イルミネーションで飾られ、クリスマス商戦を展開します。町の広場にはクリスマスツリーが飾られ、ニュ-スになるのです。そしてクリスマスイヴには、各家庭ではケーキを買って祝うのです。ある本に、地方の町で、その町の神社の神主さんが町おこし委員であり、「ミレニアム祭が世界的にされているから、町でもミレニアム祭をしたらどうか」と発言したというのです。そこで他の人が、「ミレニアムとはキリスト生誕2000年を祝う祭典ですよ」と言うと、その神主さんは、「うちの町にもキリスト教徒の檀家がいますから別にかまわないと思いますよ」と言ったという、エピソードが載っていました。かつて「イザヤ・ベンダサン」のペンネームで有名になった山本七平さんの、「日本人とユダヤ人」という本の中で、日本でのキリスト教は、日本教のキリスト派である様相を呈していると指摘しているところがあります。宗教は様々な教えの系列の流れを持ちながら対立するものです。対立しながら古来の自然崇拝を中心にした日本の伝統的な神道も、仏教伝来で本地垂迹(仏が様々な形、神々に代わる)となって、皇室も神道と仏教の混淆のようになってきているのです。そして仏教の多様な宗派が政治を動かし、庶民にも根深く浸透する教派が日本人の因襲心情として習俗化して受け入れられていくのです。戦後、貧困、病気、暴力などの生活の不安を取り除くという、日蓮宗系の新興宗教が大きく社会に影響を与えてきました。その排他的な独善的教義は、攻撃的で他者否定的な闘争的な性格であったのが、政治的な路線に変わって、宗教活動から政治活動に変質してきています。結婚式も伝統的に人前、神道で行われてきたものが、今ではキリスト教式が90%であるとさえ言われています。そして葬式は、家族葬から、直葬の社会風俗に様変わりしているのです。その一方、バレンタインデイはチョコレートのプレゼントで経済効果を引き出しています。また昨今、カーニバル(謝肉祭)などを真似て、どこの町でも、グループダンスで路上を行進する市民祭りが盛んに行われています。長い間キリスト教国で培われた社会的な習俗が、今日の日本の社会ではその意味を問うことなく祭りで行われているのです。
 日本は世界でも最も豊かな国です。平均年齢は世界一、それには誇るべき高度な医療制度があり、問題がありながらも社会福祉が整っているのです。高度な教育、高度な技術、高度な産業、高度な社会秩序、世界に誇る事の出来る安全な社会です。しかし、豊かになりながら災害の不安、犯罪の凶悪化、「後妻業」という言葉がはやるように、「欲と金」に狂った高齢者連続殺人が、現実に表れ始めているのです。危険な麻薬や脱法ハーブに溺れ、交通事故や殺傷、殺人事件が日常化しています。健康面では国民の3分の1が糖尿病または予備軍という現実、400万人が認知症高齢者であり、その予備軍が450万人とも言われています。そして働く意欲や動機を失って仕事ができず、仕事をしないで悶々と過ごすニートが40万人にもなっているという現実があります。
 今年もクリスマスを迎えようとしています。町のあちらこちらでクリスマス・イルミネーションが飾られます。商店やデパートでは、クリスマスセールでクリスマスキャロルを流して雰囲気を高めます。猫も杓子もクリスマスパーティーを待ちます。ツリーが飾られ、サンタクロースを待つ子供が楽しそうです。キリスト教会を訪ねた人の、「教会でもクリスマスをするのか?」…??という問いに、開いた口がふさがらないのです。人々は「メリー・クリスマス」と言います。なぜクリスマスが、めでたいのでしょうか。日本では一年中お祭りがあります。お祭りとは、忘れてはならない、大切な出来事を記念して、それを様式化して伝える伝承です。人々はその出来事を習俗化してしまい、その出来事の意味を忘れてしまうのです。
 クリスマスは、イエス・キリストの御降誕の出来事をお祝いする日です。日本では天皇誕生日が祭日となっています。現在の天皇の誕生日を祝うのですが、崩御されている天皇の誕生日は、何かの記念日として残すのです。
今年は2014年です。西暦2014年と言いますが、これは西洋ではAD2014年と表します。ADとは「アノ・ドミニ」と言って、「主(神)の年」という意味です。神の御子イエス・キリストがお生まれになって2014年という事になります。今や世界の共通暦はこの西暦であるのです。
 神に選ばれた民、イスラエルは、長い歴史の中で多くの苦難や、試練に会うのですが、悲惨な地上の惨状を根本から解決される「救い主」が必ずおいでになる事を、多くの預言者が立てられて語られ、慰めと励ましを与えられてきたのです。イザヤはその預言者の一人です。イザヤ書11章では「平和の王」としてのイエス・キリストの来臨を予告しているのです。
 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。」(イザヤ11:1−4)。エッサイはダビデの父であり、イスラエル王国を実質的に設立する為に用いられたダビデ家を意味し、やがてその家系からこの世を救う王メシヤ、キリストがお生まれになるという伝承が伝えられていたのです。そのキリストがどのようなお方であるのかを、言い表しているのです。
 2節に、「その上に主の霊がとどまる」とあります。神は「霊」であり、その人に「神の霊」がとどまる、内在される。神が人になることを預言するのです。神が人となる。見えない神が、見える人となって下さる。語り、教え、人の歩むべき道を示して下さるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)その御目的は、「世を愛される」事であったのです。その事によって「誰も滅び」ないで、不幸にならないで、真実に平和になる。変化しない、永遠に変わらない平安、すなわち神様が治められる神の国の実現を表すためにある事を示しているのです。
 その平和は、主の霊によって実現するのです。それこそ「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、」であるのです。神様の主体である霊、その霊による「知恵と識別」であるのです。この世は完全な知恵、間違いのない知識によって治められるところに真実の幸福が約束されるのです。そして「思慮」は、無責任な思い付きではなく、深く、未来を見据え、確実な可能性を見通す事です。その確かさから、「勇気」が生まれるのです。神様の「霊」、その命こそ、神様の「愛」であるのです。
 そのキリストの愛とは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)。自分の存在を「友」(身分の上下がない)、≪わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。≫(ヨハネ15:14、15)。自分を犠牲にする「王」、民を友と呼ぶ「謙遜の王」、共に苦しみ、悲しみ、重荷を負って下さるキリスト、救い主であるのです。いつも貧しい人の立場で、弱い人のそばに立って処せられる限りない慈愛の方である。
 そして、自然の弱肉強食の争い、殺戮の坩堝から、秩序と調和が回復すると予告するのです。クリスマスは平和の実現です。

「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」(イザヤ11:6−10)

 これは夢ではなく、真実の平和が現実に回復されると、キリストの御降誕は予告するのです。使徒パウロは、自然と社会の現実の混沌と虚無を見、主の御降誕を通してもたらされる真実で全き「平和」を待ち望んでいるのです。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ロマ8:18−25)
クリスマスを心より待ち望みましょう。主は近い。

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