阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年12月14日
「主イエスのご降誕の知らせ」
ルカによる福音書1章26−38節

 クリスマスの聖日を一週間後に迎えようとしています。多くの人にクリスマスの思い出があると思います。終戦の2年後、1947年に私は初めてクリスマスの集いに出席しました。戦争の為、地方の小さな漁村に疎開し、両親は慣れない田舎の生活に苦労しました。田畑を持たない家族には、言葉に表せない困難な生活でした。お菓子などは見る事ができない時代で、たまに芋や米で作る自家製の飴が子供にとって喜びでした。中学2年、1947年の暮れに、受け持ちの先生から「クリスマスの集まりがあるから行かないか、汁粉がでるそうだよ」と言われ、クリスマスはともかく、汁粉に誘われて初めてクリスマスに出席したのです。大人が6人位に子供が7〜8人、出雲今市から牧師先生が来られているという事でした。讃美と祈り、そしてお勧めが終わって、いよいよ汁粉がふるまわれ、砂糖のない時代でしたから、甘い汁粉の味を忘れる事ができませんでした。クリスマスの話の事は忘れても、汁粉がいつまでも思い出されるのでした。
 私を誘ってくれた受け持ちの先生は、禅宗を信奉する先生でした。先生はクリスチャンの集会に時々誘ってくれましたが、そのうち出席しなくなりました。牧師先生は、1ヶ月に1回、汽車で一時間かかる私たちの町へ集会の為来てくれていたのです。私はどういうわけか、毎回誘われるままに出席していました。そのお世話をしているのは、同級生のお兄さんでした。ある時は小さな宿屋で、ある時は数人のメンバーの家を回り持ちで、集いが続けられたのです。多くの同窓生を集会に誘ったのですが、私一人が残りました。やがて大学入学の為上京するのですが、その時、そのお兄さんに記念として賀川豊彦の署名の入った手帳聖書をもらいました。そして東京で教会に出席するようになるのです。多くの友達の中から私だけが今日までキリストに導かれ、伝道者の生涯を歩き続けて来られた事は、あふれるばかりの神様の祝福であるように思います。聖書の、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)という御言葉が真実であると確信できるのです。
 神様の選びとは、神様の計画であり、恵みの祝福であると言えます。神の御心です。人間は、往々にして悲しい事や苦しい事、破滅的な出来事を嘆き、呪う事さえあります。しかし、ローマ書8章28節には、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」“万事が益”となる、とあります。言葉に表せない苦悩の中で主イエス様に出会う事ができるのです。
 神様は、闘争と殺戮が繰り返される人類の長い歴史の中で、命と存在の根源者として、創造の意図をいつも顕わし、神ご自身が喜びえない悲劇を愛おしみ、解決と救いの道を示されてきたのです。神様の命と創造の動機は、神様の喜びであり、慈しみ、「愛」をもって万物を創造されたのです。神様は人の罪の為に断絶されてしまった、神様の愛と恵み、平和と調和を回復する為に、イスラエル、ユダヤ民族を選び、救いの道を示されてきたのです。それがキリストの御降誕なのです。紀元前8世紀頃、イザヤという預言者がクリスマス、すなわち神様の真実の平和の実現の道を予告したのです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:5、6)「驚くべき指導者」、まさにこれは、だれも考え付かない、超人的な知恵と勇気であるのです。それこそはイエス・キリストが示された「神の愛の原則」“掟”であるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)ここに真実の平和の原則、神の国の実現の基本が示されているのです。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)神様の臨在こそ、平和の土台です。それは神様の愛があるところに実現できるのです。
 神が失われた人の心に神の愛を取り戻す、神の国を実現し、神の愛を示す為に、「神が人になる」出来事こそ、イエス・キリストのご降誕であるのです。イスラエルで言い伝えられてきた、ダビデの末裔からメシア、キリスト、救い主がお生まれになるという出来事が起きるのです。「エッサイ(ダビデの父)の株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。」(イザヤ11:1−5)。マリアは天使から、「主があなたと共におられる」「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と告げられたのです。
マリアはヨセフと婚約していましたが、このお言葉に動揺し、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(:34)と言います。しかし天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(:35)と言うのでした。イエス・キリストは神であるのに人となられたのです。そして、失われた神様の御心「愛」を現実に示す為に、その生涯を歩まれるのです。人々に神様の恵みを示し、人を立たせ、混乱と殺戮の悲劇の根源は「罪」である事を示されます。神様を忘れ、神の愛を失い、人間の根本的な本性である、愛し合うという真実を失っている悲劇を悟らせ、その罪から回復する為に、神の子イエスは、生涯を通して神の愛を示されたのです。愛とは赦しあう事、和解する勇気、共に生きる寛容、共に助け合う親切です。それが神と共に生きる事であると示されたのです。イエス様は、人を助け、人を愛し、人と共に苦悩を背負い、一人一人が悔い改めて新しく生まれ変わる道を示しながら、イエス様を拒絶する人々に裁かれて、十字架に架けられました。それでもなお赦し続けられるのです。そして、「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(Tヨハネ2:2)になられたのです。
 母マリアは、「神にできないことは何一つない」という天使の言葉を聞いて、「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と答えるのです。
 クリスマスを迎える為の準備は、一人一人が心の中でイエス様の十字架を崇め、約束の再臨を待ち望む事にあります。今年も真心を込めて主の御降誕を感謝と賛美の心で迎えようではありませんか。
マラナタ! 主よ、来たりませ!!!






 ページのトップへ
  
2014年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ