阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年12月28日


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2014年12月28日
「感謝と希望の日日」
ルカによる福音書17章11−19節

 一年の最後の日曜日を迎えています。現在は過ぎ去った日々に学び、全てに進歩した豊かな時代になりました。しかし、今年も様々な災害や試練が続き、その試練の中にある方々の苦悩を忍ぶと、心が張り裂けるような思いがします。使徒パウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16−18)と言っています。日々の営みの中では様々な事に出くわします。「どんなこと」にも「感謝しなさい」と言われても、現実には「感謝できない」事がしばしば起こるのが現実です。ともすれば「愚痴」「嘆き」「苦悩」する事が多いのです。しかし聖書は、「どんなこと」「すべて」の事について「感謝しなさい」と命令しています。「いつも喜んでいなさい」と言われても、「いつも」「どんな時」にも「喜ぶ」事はできないと言えます。使徒パウロは、フィリピの信徒の手紙においても、「主において常に喜びなさい」(4:4)と言っています。「主において」というのは、「主イエス・キリストを信じる信仰」によってという事です。それではじめて「常に」「例外なく」喜べるというのです。イエス様によって神の愛と命に目覚め、生かされているという自覚に生きる時、この世の様々な変化と試練の中にありながらも、神様が支え、回復の道を示しておられる事に気付くことができるのです。それは、「どんな時にも喜べるように」、「どんな事にも感謝できるように」という「約束」が裏付けられているのです。
 人は自立的に、自分で生きていると思っています。しかし、現実には人間は生かされて存在しているのです。創造の仕組みは、神様の愛の恵みです。創造主なる神様を信じて、神様の愛と恵みを自覚できるのです。支えられている自分、生かされている自分の自覚です。
 人は日々様々な出来事に出会いながら生きていきます。ルカによる福音書17章に、10人の重い皮膚病の人の事が記されています。重い皮膚病は伝染性の強い、業病として恐れられていて、家族や人々から隔離されていました。イエス様はエルサレムに上る途中で、サマリアとガリラヤの境にある所を通られました。そこで10人の重い皮膚病を患っている人たちと出会ったのです。彼らはおそらく、イエス様が悲しんでいる人を慰め、孤独な人の友となり、病の人を癒し、ある時は見えない人の目を癒し、生まれながらに歩く事のできない人を立たせるという、癒しを行っておられるという噂を聞いていたと思われます。家族からも遠ざけられて、寂しい所に肩を寄せ合って生活していたのです。そのイエス様がこちらに来られるという噂を聞いて出迎えました。10人の病める人たちがイエス様を待ったのです。やがて遠くに一行の姿を見た10人は、「イエス様、どうか私達を憐れんでください」と叫ぶのでした。彼らはなぜ遠くから叫んだのでしょうか。当時、「思い皮膚病」に罹った人は、健康な人に近づいてはならないという掟があったのです。それだけではなく、人のいる所を通る時には、「私は重い皮膚病です」と、叫ばなければならないという掟があったのです。イエス様は哀れに思い、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのでした。10人は、早速祭司たちの所、おそらくエルサレムに向かったのでしょう。そうすると行く途中で、10人とも爛れた皮膚、変色した体が生まれたばかりの赤子の皮膚のようにきれいになっているのです。気がついた10人は、喜び感動して祭司に見せて癒された事を確認してもらったのです。10人の癒された人たちの喜びは大きかったと言えます。家族と共に生活でき、社会復帰もできる。祭司の元へ行く途中、10人がイエス様によって「癒された」のですが、1人だけが神を賛美しながらイエス様の元へ帰ってきて、「ひれ伏して」感謝をしたのでした。イエス様は、「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。」と言われたのです。帰ってきた人はサマリア人であったのです。サマリア人は、18節で「外国人」と言われているのです。サマリア人はユダヤ人と伝統や信仰が違うので、ユダヤ人は自分達こそ正しい信仰を持っていると、彼らを見下げていたのです。偏見と差別に会い、神様と関係がないと言われているサマリア人は、イエス様の所に帰ってきたのです。
ここに示されている事の第一は、伝承や形式、人間的な様々な見方ではなくて、神様はどんな人であっても真心から神様の恵みと愛に感動し、心を開く人に愛と喜びと感謝を与えられるのです。
第二に、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った。」と言われるのです。ともすれば「信仰」が人の能力であり、それで信じるように見えるのですが、そうではなく、「信仰」とは聖書の言葉で「ピストス」と言って、「信頼」なのです。信頼とは、信頼させられる事にあると言えます。「繋がり」なのです。言い換えれば信頼する、される事を通して一つになる事です。イエス様を通して、全能にして愛なる神様と思いが一つになる経験であると言えます。
第三に、いかなる時にも神様が共においで下さるという経験こそが、信仰の中心であるのです。イエス様は、「神共におられる」という意味として示されているのです。「神様が共におられる」事こそは、「神様に愛されている」事であるのです。愛する事は信頼する事です。信頼のない愛は偽善です。愛は信頼によって愛となると言えます。イエス様は、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と言われています。そして、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とも言われているのです。共にいる、愛されている自分の自覚こそが、喜びの泉であり、感謝の源であるのです。
 10人のうち、1人だけが癒しの喜びを感謝としてイエス様にお返しできたのです。人の力を超えた奇跡は単なる出来事ではなく、そこにメッセージがあるのです。神様は全能であり、愛であるというメッセージであるのです。だからこそ喜びと感謝をもってイエス様の所へ帰ってきたサマリア人は、感謝と喜びをもって「ひれ伏し」たのです。それこそが神様の恵みをほめたたえ感謝する礼拝であるのです。礼拝は神様の恵みを感謝し、その御業をほめたたえる事であり、神様の御名を称える賛美です。それが礼拝であるのです。
 10人の人達は、言葉にならない苦悩と悲しみ、苦痛と孤独の中で自分を呪うような現実であったのです。しかし、1人だけが、その言い難き嘆きから解放されただけでなく、癒されたその意義をイエス様に感謝する事で、神様の恵みの現実を表わしました。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(ロマ8:37)。この御言葉をもって確信できたのです。
 確かに日々の生活の中で理解できない試練が襲う事もあります。しかし、イエス様を通して神様に支えられ、愛されている自分に目覚めている時、その苦悩が意義付けられ、希望を持つ事ができるのです。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)「万事」が益となるようにしてくださるのです。だからこそ、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11−13)とはっきり告白できるのです。
一年の日々を回想し、何一つ無駄でなかった事を心から感謝し、御名をほめたたえようではありませんか。新しい年に新しい希望をもって!!!主イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる。」と言われたのです。(ルカ18:27)


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