阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年1月4日
「最も大切な幸せの土台」
コリントT12章31B−13章1-13節―14章1A

 日本人は、新しい年を迎えると共に、何事も新しくなり、心の刷新がなされると伝統的に考えています。経済界では3月決算が多いようです。学校も3月が期末で、4月に新しい学期が始まります。しかし、正月を生活の出発点として新しい思いで祝い、新鮮な思いで歩み始めます。クリスチャンの信仰では、時の流れを摂理と言います。摂理はギリシャ語でオイコドメオーと言いますが、オイコス「家」をドメオ(建てる)という意味です。「家を建てる」、1年、1年、家を、人生の家を建てていく事を意味しているのです。それは、一生を通して人生の家を建てるという事をも意味しているようです。「摂理」とは、神様の御計画、御心という事でもあります。人それぞれには長い人生の生き方がありますが、その多様な中で共通しているのは、人は人と共に生きるのが自然であるという事です。本来、人は1人で生きる事はできないのです。人の存在そのものは、父と母の2人によって生まれるのです。家庭の中で育まれ、愛おしまれて生育していきます。そして、人と共に生きる事の中で学び、教え、助け、労り、慰めて人は人として生育するのです。人は、生まれながら両親に愛されて成長し、愛の中に人を愛し、愛されて生活が営まれていきます。人間の愛の基本的な共同体が家庭であるのです。世界が、社会が、どんなに変わっても、家庭は生活の原点であると言えます。家族は本来血縁関係で繋がっています。しかし、血縁があっても愛がなければ家庭はないのと同じです。血縁関係はないけれど、愛と信頼に結ばれている人が共に生活する所に、真実の家庭があると言えます。
 神様は、人に人生の根本的な理想の家、即ち、人生設計を指示してくださっています。そしてその基本的な土台の上に、人それぞれの個性のある、それぞれの願いをデザインして、目標が達成されて行く事を聖書は教えています。家の表向きの色合いやデザインは、その家の土台と骨組みが形成されていて初めて生きるものであると言えます。
 新年の出発に当たり、与えられたこの1年に、もう一度その根本的な設計の根幹である視点を示され、土台と骨組みの在り方をしっかり学ぶ事にしたいと思います。
 神様の御心に添う事を一言で表しているのは、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(コリントU5:9)「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:10)です。その生き方については、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(ローマ12:1)と言っています。言い換えれば、一人一人が主に喜ばれるように生きる事、主に喜ばれるような生き方をチェックすることです。それは、「聖なる生けるいけにえ」すなわち、「献身」を意味しているのです。
旧約時代には、宮で礼拝する時、「燔(はん)祭(さい)」を献げたのです。供え物の羊や牛を火で焼き尽くし、煙が香りと共に天に上るのを、神に対する「献身」のしるしとしたように、「主に喜ばれる」事こそが生活の中心、土台となるのがクリスチャン生活の基盤であると言えます。
使徒パウロはコリントTの12章の終わりで、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」と言うのです。この「最高」とは、変える事のできない根本的な「道」、何にも変える事のできない「道」であるのです。信仰生活にとって最も重要なものを言っているのです。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(コリントT13:1−3)
クリスチャンの信仰において最も大切な、根本的な教えがここにあります。「愛」がなければすべては空しいと言っているのです。クリスチャン信仰の中心、根幹は「愛」です。「完全な信仰」を持っていても、完全に教えを守る、規律を守る、教理を信じ、良い行いができたとしても、「愛」がなければすべては無意味なのです。困っている人を助け、全財産を貧しい人に差し出しても、極端に言えば自分の命までも与えたとしても、「愛」がなければ何にもならないという、ある意味で極端な類比を提示していると言えます。名誉を望み、良く思われたいという人間の内面的な動機を根本から否定している事を知らなくてはなりません。いかなる時にも「愛」という動機こそが、その人を動かす動機であれと言うのです。
キリストが十字架の上ですべての人のために犠牲になられた、あの徹底した無私の愛こそが「神の愛」であるのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネT4:9、10)
人は本来自己中心に生きる者です。しかし、真実の愛、神様の愛がここに示されているのです。人と共に生きる事は、人を愛して生きるという事です。人を思いやり、自分を犠牲にする事を「愛する」と言うのです。しかし、人は自分にとって損か得か、自分にとって快適であるのかないのか、自分にとって満足か、不満かでものごとを判断するのです。キリストにある「神の愛」は、愛する人を生かし、喜ばす事だけが動機となるのです。この純粋な愛のあるところに、「人の絆」が真実に成り立ちます。固い絆、変わらない絆があるところに真実の家族、家庭があるのです。「ここに愛があります」。この「愛」は、アガペーの愛、「神様の愛」です。
第一に、クリスチャンは、心に神様の愛がいつも育ち、それによって成長する事が大切です。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19、20)キリストが私の中に生きておられる、この経験こそが、キリストの思い、神様の愛に生きるという現実を表しているのです。キリストの愛が成長する事こそが、信仰生活の基本的な修行の道程であるのです。それはヨハネの手紙T2章5節で教えています「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」神様の言葉を守る事によって、人の内、心に「神の愛が実現」すると約束しているのです。御言葉こそキリストの言葉であり、キリストに聞く事は、キリスト生きる事に他ならないのです。そのキリストの言葉が、心に溶かされ命となって全人格の隅々にまで満ち溢れる事は、「祈り」の生活で生まれてくるのです。
第二に、愛こそが命となり、人を動かす「力」となるのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(ヨハネT4:18)愛には恐れがないというのは、まさに「勇気」です。弱いと思われる人であっても、愛する人のためには犠牲になる勇気があるのです。「愛」は「力」でもあるのです。人を動かす行動力、動機です。神様の愛に生きる人は勇気ある人であると言えます。
第三に、愛する事は、「関心を持つ」事です。愛の反対は「無関心」です。愛する人は愛する事に犠牲を厭わないのです。そこにはいつも注意深い関心が寄せられているのです。愛がないとは、「無視」に他なりません。関心は愛する人への証です。奉仕する、助ける、世話をする、労わる言葉こそ、関心を持っている証であり、愛が生きているのです。
この一年、この信仰の根本的な原則をしっかりと自覚して、その上に、与えられた信仰のビジョンを実現していきましょう。

 「愛を求めなさい」(コリントT14:1A)


 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ