阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年1月11日
「大切な人の生き方の道」
ルカ福音書10章25−37節

 新しい年が動き始めました。皆さんも新しい年に相応しい目標をもって一年を始められた事と思います。元旦礼拝と、新年礼拝でも繰り返し確信しました事は、「いかなる時にも愛がなければ、全ては空しい」という事です。今年の生活指針の御言葉は、ヨハネ第一の手紙2章5節「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」です。「愛」がなければ空しいという事は、Tコリント13章に徹底して集約されています。しかし、その「愛」は物欲、情欲、名誉欲、支配欲などにまみれた自己中心的な「愛」ではなく、イエス様の十字架に表された自己犠牲の「愛」です。その自己犠牲さえ自分の名誉や自己顕示欲によってなされるのなら、「無に等しい」(Tコリント13:2)と、聖書は言っているのです。イエス様の「愛」は、「愛している人の為に生きる」事に他ならないのです。この「生きる」事こそが、「愛している」事なのです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
愛の為に犠牲になる事ほど「大きな愛」はないというのです。「大きな」とは純粋な愛であり、真実な愛であるのです。神の愛なのです。この愛は、「神の言葉を守る」事によって「愛が実現」されると教えられています。言い換えれば、「神様の教え」、その「御言葉」が「守られる」、実践されるところに神様の「愛」が実現します。現実に経験し、実践されるのです。神様の御言葉、その戒めを実践する事によって、そこに神様の「愛」が証しされ、神様が生きておられることが実証されるのです。 神様の御言葉、戒めを知っているという事と、行う事、生活する事とは違うのです。愛は知っている事を行い、生かされて存在し、実現するのです。
 ある律法学者がイエス様を試みて、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ10:25)と問うのでした。律法学者は、当然、神様の御言葉と、「律法を守る」事によって、「永遠の命」を得るという伝統的な回答を持っていたのです。当時は、律法を「守る」前に律法を知る事がなければなりませんでした。守る前に律法を知る事が求められるのです。モーセの律法を解釈して生活の隅々にまであてはめ、それを文章でなく暗唱し、口伝で残して守っていたのです。それをミシュナー(律法実践規定)と呼んでいました。イエス様は、「律法には何と書いてあるのか」と問われるのです。律法学者として当然知っている事であるのですが、イエス様の答えを引き出そうとしているのです。イエス様はそれを見越して、律法に精通している律法学者に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われるのです。当時、膨大な律法を総括して、大切な事として伝えられている要旨は、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命6:5)と、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)という事です。それは、「全身を全霊を尽くして神様を愛する事」と、「隣人を自分のように愛する事」であって、律法学者は直ちに回答します。イエス様は、あなたは良く知っているのだから、それを実行しなさいと言われるのです。しかし、その律法学者は、律法について自分なりの理解をしており、隅々まで知っているという自負心をもって、「隣人」というのは誰を指すのかと、イエス様に問いかけます。
そこでイエス様は、有名な「良きサマリヤ人」の譬えを話されるのです。ある人が、エルサレムからエリコに旅する途中の話です。エルサレムは標高800メートルもあり、エリコはなだらかな荒涼たる山地を東に下り、ヨルダン川の河口から15キロにあり、海抜250メートルという低地にある。その中間の山間に、譬話に登場した宿の遺跡が今もあるのです。このような地勢で、しばしば旅人を盗賊が襲うことがあった。この旅人が強盗に襲われ、少なくとも何らかの抵抗をした為に痛めつけられ、傷つけられて身ぐるみはぎ取られて、瀕死の状態になって倒れていたのです。そこへ通りかかった祭司がいたのですが、彼はそれを見ると、道の向こう側を通って、逃げるようにして去って行きました。その後、レビ人が同じくそこを通ったのですが、見て見ないふりをして、そこを去って行ったというのです。その後、あるサマリア人がそこを通りかかり、傷ついて呻いている旅人に気付くのでした。彼は憐れに思い、傷に油と葡萄酒を注いで手当し、包帯を巻いてやり、自分のろばに乗せて宿屋まで運んでくれました。翌日、宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚(亜y(土)宿賃と手当代を渡して介抱を頼み、費用がもっとかかったら、帰りに自分が支払うと約束しました。そこでイエス様は、律法学者に「傷ついた人にとって、この3人の内、誰がその人の隣人ですか。」と言われるのです。当然、律法学者は、「その人を助けた人が隣人です」と言います。イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるのでした。
この譬えにより第一に学ぶべき事は、祭司は神殿で祭儀を執り行い、民の贖罪をして人々の解放と平安を祈り、律法にも精通していたのです。またレビ人は、宮のあらゆる奉仕を受け持ち、専従して、詳細な祭儀の規定に精通しており、模範的な生活を営んでいる人々でもあったのです。言い換えれば神様に近く仕える人々であるのです。律法を守る事こそが「永遠の命」を約束されていると考えられていたのです。「永遠の命」とは「神の国」に生きる事であり、神のおられる「天国」を意味するのです。律法の総括的なその真髄を、「神様を愛する」事と、「隣人を愛する」事を示されている事を知りながら、祭司やレビ人は、目の前に傷ついて倒れている人を見ても、不安と恐れから助ける事なく去っていくのです。律法の精神を知り、律法の目的を知りながら、律法の神髄である「神様の愛に生きる」事をまったく自覚していませんでした。聖書の教え、律法の精神は、「人を愛する」事に尽きるのです。「神の愛」のあるところに「神様はおられる」(ヨハネT4:12)。神様の愛に生きる事こそ、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10)という主の祈りの実現に他ならないのです。「神様の愛」の実現こそが「神の国」、永遠の命の今日にあるのです。
第二に、傷ついた旅人を助けたのは、「サマリア人」であったのです。おそらく傷ついた旅人は、祭司やレビ人と同じユダヤ人であったと思われます。ユダヤ人同士であっても「憐れみ」の情を持てない悲しさをイエス様は指摘されるのです。サマリア人とユダヤ人は、歴史的に犬猿の仲であり、様々な経緯で同じ民族的な繋がりがありながら、バビロンの捕囚後、残留組と捕囚帰国組の対立で偏見と差別が生まれ、交流もなく、断絶状態が続いていました。その憎しみと対立がありながら、サマリア人が傷ついた旅人を見た時、「憐れに思った」のでした。人間として傷つき、瀕死にある人を見過ごせないのです。これが人間です。愛に生きる人間こそ「人」であると言えるのです。ユダヤ人とサマリア人は正に、憎しみの関係であるのです。しかし、誰であれ「人間」が傷つき、倒れている時に「憐れみ」の心を持つ、そこに「隣人」がいるのです。誰が隣人か?主イエスは「すべての人が愛し合う」事こそ「神の国」「天国」の実現であると言われるのです。
第三に、日々の歩みで最も大切にする事、それは現実を天国、神様が共におられる日々を築くことにあります。まさに「神様の愛」を実現する事です。どんな人間にも神様は「愛」に生きるようにされているのです。神は御自分にかたどって人を創造されているのです。(創1:27)「神は愛です」(ヨハネT4:16)。だからこそ「人は愛で生きる」のです。すべての人が神様の愛に生きる事に目覚める時、そこに神の国が実現するのです。神の言葉とは、神様の愛の御言葉です。それはイエス様が十字架で表された神様の愛の出来事の記録です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントT1:18)言葉は、知識や知力でなく「神の力」、人を変える力、この現実を変える力であるのです。その力こそ「愛の力」です。イエス様が神の御子として、人類に救いと平和の希望として示してくださった「神様の愛」の力であるのです。
愛のあるところに和解、融和、協調、平和、安全、限りない希望があるのです。この一年、神様の愛を求め、学び、神様の愛に生き、生活を築き、人々に神様の愛を伝え、広めようではあませんか。
愛の福音を述べ伝える前に、キリストの教会にキリストの愛が生かされていなければなりません。そこから祝福の実が結ばれるのです。





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