阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年1月18日
「豊かな実りを目指す種蒔き」
ホセア書10章12節

  今年の目標は「愛の実現」(ヨハネT2:5)です。信仰生活の祝福は「愛の実り」(ホセア10:12)を刈り入れる事にあるのです。「愛の実現」は「神様の御心の実現」です。クリスチャン生活の祝福の基本は、「神様の御心の実現」であり、「御心」は「神に喜ばれる」(ローマ12:2、エフエソ5:10)事に他なりません。神の御心は、「神様の御言葉を守る」(ヨハネT2:5)事です。「守る」事は「生きる」事です。聖書はその真理を明白に記しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)とあります。そして、「神は愛です。」(ヨハネT4:16)であり、さらに「神は霊である」(ヨハネ4:24)のです。言葉も、愛も、霊も見えません。聖書は「神を見た者はいない」(ヨハネ1:18、ヨハネT4:12、4:20)と記しています。見える神は偶像です。しかし、森羅万象、形あるものの創造は、神様の意思によって創造されている事が分かります。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(へブライ11:2)言葉は文字になってその意味を表します。その象形する文字が違っても意味は共通している事になります。言葉は文字の象形でなく、その意味が本質(なくてならないもの)なのです。意味は見えません。意味とは神様の意思であり、「御思い、御心」であるのです。そして「愛」も見えないのです。「愛」は「実現」する事によって、その存在が明らかになります。そして「霊」こそ、聖霊として神の命、言葉を見える形に実現する生命力であると言えます。神様は見えません。「信仰」によって「実在」が「実現」するのです。
 神様の言葉は「意志」であり、神様の愛は「本質的な思い」、「聖霊」はその中心的な生命力であるのです。聖霊は神様の霊であり、本質として御心(意志)と御思い(感情)をもって世を愛し、その創造の意義を現して下さるのです。その神様の愛は、御子を世に遣わして、その存在である命を犠牲にする事によって証しされたのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(ヨハネ父4:9−11)神様の愛を失った悲劇的な人の世に、このように真実の愛、神様の愛を示して下さったのです。
 人間の現実は、罪と破壊の連鎖の尽きざる悲劇の歴史です。しかし、神様の愛による御心がイエス・キリストの十字架の出来事を通して示されました。キリストは十字架に架かり、神を無視し、侮り、否定し、神を殺すという理不尽な人間の罪を赦し、赦すのみならず、その犠牲により「愛し」「いたわり」「待ち続け」、祈り続けて下さるのです。「イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(へブライ7:24−25)
イエス・キリストの十字架の出来事に、「神様の無限の愛」が開かれているのです。そこに「和解」があり、「融合の絆」があり、「平和のカギ」があるのです。「平和の源」(ロマ15:33)こそ、キリストにあり、この平和は、生きる希望です。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(ヘブライ12:14)。平和こそ「聖なる」生活であり、「聖なる生活」こそ、「主を見る」事ができるというのです。そして、ヨハネ第一の手紙4章には、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(:12)とあります。
聖別されたところには主の愛が証しされるのです。愛があるところに主がともに居てくださる。言い換えれば主が共に居て下さるところに愛があり、愛のあるところこそ聖なる場、神の臨在の証しの場であると言えます。
 第一に、「恵みの業をもたらす種をまく」事が基本的な出発点になります。「恵みの業」こそが「愛の実」を結ぶ前提になるのです。「恵み」とは、神様に生かされている事です。そして「業」こそ、その「恵み」に目覚めさせる「信仰」、すなわち信頼であるのです。神様の恵みが分かる、目覚める事こそが「恵みの業」です。「業」とは行為ではなく、まさに神様の祝福に目覚め、感謝する事なのです。そこから神様の愛に出会うのです。神様に愛されている事こそ、活ける神に出会う経験であるのです。神に生かされている自分の発見です。その経験が祝福の「種」であると言えます。
 そのためこそ、神様に出会った者に備えられる、「神の言葉」を聞く事と、「祈る」事に導かれるのです。「神の言葉」は神の御心の基本であり、「神の言を守る。」(ヨハネT2:5)事こそ、「愛の実現」となるのです。神の言葉、聖書を読む事、即ち、「聴く」事によって神様の御心、神様の愛の臨在に触れ、生かされるのです。そして祈る事によって、聖霊の導きにより、御言葉の命を生活の中で「神の愛を実現」させられるのです。
 第二に、「新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。」(ホセア10:12)。新しい土地とは、信仰によって与えられた新しい家であるキリストの体なる教会であり、キリストの体の肢体(枝)として成長する事を指しています。キリストを信じて一つになった。一つとなるとは、「神の愛」によって一つにされたのであり、それは、愛による神の臨在の場であり、神の愛の実現の結果であるのです。もちろん、そこには過ちや行き違い、誤解や罪深さもあるかもしれません。しかし、主イエスの十字架の言葉により、赦し合い、悔い改めによって絶えず再起して神の愛、神の国の現実を証しするのです。そこには再生のチャンスがあるのです。一歩一歩、御言葉に導かれ、祈り会って計り知れない主イエスの恵みに生かされ、成長しなければなりません。御言葉に忠実な信仰と、祈りあう信仰の実践こそが「愛の実現」生きた愛、真実の愛の現実であるのです。教会を離れては、信仰は育ちません。カルヴィンは、「母なる教会」と言い表しました。教会で主の言葉に養われ、主の言葉に生かされ、主の御心、その愛に生かされて信仰は実を結ぶのです。
 第三に、「主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように」(ホセア10:12)。祝福の実を結ぶために、あらためて主の御心を求め、最後の祝福の時を迎える前に、豊かな恵みの雨を注がれるという約束を果たして下さると確信するのです。ペンテコステの日にイエスの弟子たちが失望と混乱の中で、御心を見失いかけていた時、「聖霊」が降ったのでした。そして聖霊はペテロにヨエルによって預言されている主の御心を開示して、「預言者ヨエルを通して言われていた『神は言われる。終わりの時に私の霊をすべての人に注ぐ。…主の名を呼び求める者は皆救われる。』」(使徒2:17、21)という言葉の成就であると語りました。様々な試練や苦悩、迷いがあったとしても、“その時”神の時、カイロス、を定めて、主は約束の聖霊をもって実を結んで下さるのです。
 主の臨在のあるところに聖霊は臨み、聖霊は罪と赦しの主の愛を示し、真実の平和を回復し、希望の実を結ばれるのです。愛の実を豊かに結ぶ教会を目指しましょう。多くの人々がキリストの愛に目覚め、愛に希望を持ち、キリストの愛をもって家庭を築こうではありませんか。



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