阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年1月25日
「実る夢と確かな作付け」
創世記28章10−22節

  新年に良い「初夢を見る」事は縁起が良いといわれる。縁起という言葉は、本来仏教の言葉で、原因によって結果が現れるという意味になります。それは、出来事にはすべて繋がりがあるという事を意味します。確かに人の生活は、過去と現在、そして未来という時の流れを切る事はできないのです。しかし、時の流れを新しく変える出来事は起こります。過去の原因に束縛されて現実が決まるとすれば、新しい展望は見いだせない事になります。夏目漱石による草枕の冒頭に「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地(いじ)を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とあるように、人情に左右され、考えて、物事を進めても、自分中心に陥って、どうも人とうまくやれない。自己主張を通せば共調できないというように、生きる事に嫌気がさすのが現実の生活であるというのです。言い換えれば、何をしても生きるとは思うようにいかないものです。時の流れに身を任すしかないのかと思う事になるのではないでしょうか。そこには「夢」がないのです。
秋元康作詞で美空ひばりの歌った「川の流れのように」は、《知らず、知らず 歩いてきた。細く長い この道。振り返れば 遥か遠く、故郷が見える。でこぼこ道や 曲がりくねった道、地図さえない それもまた人生、ああ 川の流れのように、ゆるやかに、いくつも 時代は過ぎて、ああ 川の流れのように とめどなく空が黄昏に染まるだけ。生きることは 旅すること 、終わりのない この道、愛する人 そばに連れて、夢 探しながら 雨に降られて ぬかるんだ道でも、いつかは また 晴れる日が来るから、ああ 川の流れのように おだやかにこの身を まかせていたい。ああ 川の流れのように、移りゆく、季節 雪どけを待ちながら、ああ 川の流れのように、おだやかに、この身を まかせていたい、ああ 川の流れのように いつまでも、青いせせらぎを 聞きながら。》という歌詞で、確かに多くの人の心を捉えているのですが、穏やかに身を任せて果たして現実の日々を送れるのでしょうか。時として洪水があり、荒れ狂う波風が襲う事もあります。その流れは政変であったり、技術革新の嵐であったり、経済的な変化と流れ、仕事場での人事異動であったり、人生や生活には様々な変化の時があるものです。ただ流れに身を委ねているだけではどうにもならない事もあります。そして人には健康や事故による障害などが重く襲いかかる事もあるのです。
 聖書には、「神は御自分にかたどって人を創造された。…地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ。」(創1:27、28)とあります。神様に「かたどって」というのは、自然の中で機械的に「川の流れに」身を委ねる事ではなく、「自然を支配する」、「治める」ように委ねられ、知性を与えられているのです。言い換えれば「神様の創造性」を持ったものとして創造して下さっているのです。創造する力とは、神様の固有の能力です。想像する力が創造する事につながります。それは「夢」であるのです。ヨブ記には、「人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると 夢の中で、夜の幻の中で 神は人の耳を開き 懲らしめの言葉を封じ込められる。人が行いを改め、誇りを抑え こうして、その魂が滅亡を免れ 命が死の川を渡らずに済むようにされる。」(33:15−18)とあります。夢の中で「懲らしめの言葉」、その苦難の原因を示し、「行いを改める」という現実を直視して、原因を明確にします。「誇り」を抑えるとは、経験や修練の知識を深く反省する事によって、「死の川」を克服し、道を示されるというメッセージであるのです。
 今日における心理学の主流であるフロイドの夢解釈では、人の恐怖体験や願望の挫折不安などの経験が、無意識を形成して意識を支配し、情緒不安定や突発的な異常行動を起こすと考えられています。しかし、一方ではユングのように、人の心は民族や文化を超えた普遍的な無意識の中から夢という経験を通して、見えない神様が、夢を通して語りかけられる経験をすると示しています。夢は恐怖や未履行の欲望の集積だけでなく、積極的で創造的な経験であるのです。
 「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(フィリピ2:13口語)このお言葉は、神様が「働きかけて」下さる、「願いを起こさせてくださる」事を言っているのですが、言い換えれば、「心を開くまで」待ち続けて下さっているという事を考える事ができます。神様は、「気づき」「自覚して」問題意識をもって立ち向かおうとする気持ちが芽生えるのを、様々な機会を通して「働きかけて」下さるのです。その一つの道が「夢」です。この世の中では、「夢、幻」というように、空想的な事、不可能な事を意味します。夢を見ているとは現実的ではないという事になります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル11:1)。「見えない事実」を確信する事から「夢」は希望になり希望が、「確信する」事によって「力」になります。生きる力、努力する力、考える力、求める力、調べる力になるのです。その力が、可能性を生むのです。使徒パウロは、「わたしを強めてくださる方(キリスト)のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)と記しています。
 創世記28章には、ヤコブの夢の記録があります。ヤコブは母親の偏愛と、軽薄な兄エサウの家系相続についての無関心から起こる確執の為に、故郷を離れる事になります。家族が流浪の旅からようやく落ち着く事の出来たベエル・シェバを一人旅立つのです。そして孤独と失望、不安に苛まされ、見通しのたたない将来を思いながら、母親の里であるハランに向かうのでした。途中ルズという土地にたどり着き、そこで石を枕に野宿をするのですが、うとうとと眠りにつくと「夢」を見るのです。天から降りてきた梯子を御使いが上り下りをするのを見ます。そして主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創28:13−15)
主は、「いつも共にいる」、「守り」、「この土地に連れ帰る」、「決して見捨てない」とヤコブに約束されるのです。目覚めたヤコブは、枕にした石を記念碑として立てて、その祝福の言葉を確信するのです。やがてハランの伯父ラバンの家にたどり着き、ラケルとレアとの結婚や伯父との様々な事柄に悩まされながら20年間仕え、ようやく一財産を譲り受けて帰国するのです。しかし、兄エサウへの不義理から、どのような仕返しをされるかわからない不安を持ちながらも、心から改心し、和解を求めた時に道が開かれるのでした。その不安と苦悩の中にあるヤコブは、ヤボクの渡しで、全ての者を渡した後、天使と夜明けまで格闘するという、不思議な経験をします。そうすると、ヤコブがあまりにも忍耐強く格闘するので、その人、おそらく御使いは、ヤコブの腿(もも)を打って、もう去らせてくれと言います。ヤコブは「祝福されるまで離さない」と言うのです。御使いは、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(創32:29)と答えました。神様と闘うとは、表現が穏やかでありませんが、まさに「祈りによって勝利した」「祈りが答えられた」という事です。生まれた時、兄の“かかと(アケブ)をつかんで生まれた”のでヤコブと名付けられ、“だまして”長子の特権を奪ったヤコブに、「イスラエル」(神と戦う)、言い換えれば神様を見た人、神と共にある人を意味する名が付けられたのです。
生ける神と共に生きる事とは、ヤコブのように神様の祝福を信じ、求め、忍耐し、過去を悔い改めて和解する、その時、祝福を回復して下さるのです。
 秋の刈り入れの夢を持つ時、今、確かな種蒔きと作付けが必要であるのです。使徒パウロは、「最高の道を教えます」(Tコリント12:31)そして「愛を求めなさい」(Tコリント14:1)と教え、さらに、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22、23)と言い、コリント第一の手紙13章には、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(13:4−8)とあります。愛の実が結ぶ事こそ「力」であり「希望」、解決と解放の原則であると言えます。和解と平和、融合と一致のカギであるのです。今年は、この愛を実現するのです。愛の実を実らせる年となりますように。愛の実が実るように!!!



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