阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年2月1日
「キリストに倣(なら)いて」
フィリピの信徒への手紙2章1−11節

  今日では多くのテレビ番組があるが、かつて毒舌で知られるジャーナリスト、大宅壮一氏が、テレビの時代は「一億総白痴の時代」と言った事があります。今日ではデジタル、BSなどチャンネルは20数チャンネルもあって、どれを見て良いかわからないくらいです。番組内容はお笑い芸人を並べてのトーク番組が多い。街歩きやクイズ等、殆どが内容のない世俗的な娯楽番組です。日本中の人間が「白痴」になってしまいそうとは的を射た批評です。しかし、プラス面では、情報化時代で即座の情報や、また、内容のある教養番組もあるのです。
大切な事は、視聴者の見分ける「心」の問題であるのです。聖書には「あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」(フィリピ1:9−11口語)と記しています。クリスチャンの人生の目的は、「神の栄光を表す」事にあります。「神の栄光」とは、神が喜ばれる、満足される事を意味して、「神様は素晴らしい」という賛美がささげられることを指します。言い換えれば、神様に嘉(よみ)せられ、神様を信頼して生きる事は素晴らしいという事であるのです。このように目指す目的があるのですから、その目的を実現するために、「何が重要であるかを判別」できる事が大切なのです。その判別の基礎は、「キリストの愛による深い知識」です。テレビだけでなく、生きるための情報の選択、生活の営みを選ぶ道筋は、「あなたがたの愛」、すなわちキリストを信頼し、愛している愛、キリストの言葉に生きる事によります。そこで、「何が重要であるかを判別」できるのです。この「判別」は、ドキマゾウ(δοκιμαζω)という言葉で、「教義、教理」(ドグマ)といって、教会の信じている基本的な教えの言葉となっています。
この重要な事を判別できる力によって、キリストの愛が実を結ぶ事を目指す事になるのです。「わたし(キリスト)の掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)。この「掟」とは戒めであって、主の御心、教えであるのです。主の教えの御心、主の愛がまず心に植え付けられ、育つのです。
今年の教会の活動目標の御言葉は、「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。」(ヨハネT2;5)です。「神の言葉を守る」事と、「神の愛の実現」が同列になっています。神様の愛の実現こそ、神様の言葉、キリストの「掟」、戒めを生きる事です。言い換えれば、キリストの言葉なしにキリストの愛に生きる事はできない。キリストの言葉に生きるところに、必ず、キリストの愛は実現するのです。
トマス・ア・ケンピスの名著、「キリストに倣いて」は、聖書に次いで読まれていると言われています。その最初の章に、「福音をしょっちゅう聞いていながら、心にとめない人がたくさんいます。 それはキリストの霊を持たないためです。 キリストの言葉を十分に理解したいと願う人は誰でも、 自分の全生涯をキリストの生涯に一致させようとしなければなりません。」という言葉があります。心にキリストの言葉が入っても、言葉が命として生活に現れなければ空しいという事を言っています。
豊かに実を結び、生活が御言葉によって生かされ、キリストの愛が実るには、第一に、イエス様の種蒔きの譬えのように、よく耕された土地、即ち、御言葉が育つ心である事です。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)。キリストの言葉を聞く事によって「信仰」は始まると指摘しています。トマスは、「福音をしょっちゅう聞くが、心にとめない人がたくさんいる。それはキリストの霊を持たないからです。」と言うのです。「心にとめない」とは、「意識して、受け入れようとしない」事を言っているのです。「心を開く」事がカギになっています。「キリストの霊」を受け入れないでいるからです。「心を開く」事こそ「信じる」心です。信頼する心、正に、「幼子のように」純真な、疑いのない心情であると言えます。心の窓を開く時、光は差し込んできます。光はすべてを包んでどのような隙間でも躊躇なく差し込んでくるのです。心を閉ざしているとは、自分の思い、自分の価値観で限られた世界に生きていると言えます。主イエスは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12:46)と言われました。光は、人の心を目覚めさせるのです。人の闇、迷いと過ち、罪が明らかになるのです。神なき世界のむなしさを知るのです。そして愛されている自分を発見するのです。その光こそ「聖霊」の命です。そこでキリストの御言葉、即ち、神様の愛の命を体験する事になります。聖霊の光に照らされ、導かれて神様の愛の言葉、キリストの恵みによって成長するのです。「 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)
 第二に、豊かに愛の実を結ぶ事について、トマスは、「キリストの言葉を十分に理解したいと願う人は誰でも、 自分の全生涯をキリストの生涯に一致させようとしなければなりません。」と言います。聞く事によって植えられたキリストの愛の言葉が、全生涯に生活の中で見えるようにする。愛の実を刈り入れる、体験できるのは、キリストを信仰の導き手、人生の指導者、生活の教師、魂の救い主として仰ぎ、従っていく事によります。これこそ重要な事です。何故なら「信仰の創始者、また完成者イエス」(へブライ12;2)であるからです。イエス様の愛の根本的な基本は品性であり、命であり、聖霊なる神の現実は「謙遜」であるのです。使徒パウロは、御霊の実としてガラテヤ書5章22節に愛を中心に9つの賜物を挙げています。そこには「謙遜」が挙げられていません。謙遜は自明の事として中心に、基礎としておかれています。
 それは、フィリピ2章6節―9節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」とある通りです。キリストは、「神」であられた。しかし、自分を無にして、「僕」の姿となって「遜(へりくだ)って」死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられたのです。神が、僕になり、人の罪のために身代わりとして犠牲になる。神は「悲しみ」と「苦しみ」を通して、「恥をいとわず」「苦悩される」のです。キリストによって真実の神の愛が啓示されたのです。「謙遜」こそ、究極的な神様の本質、「愛」であるのです。
 キリストを信じ、キリストに生きる事は、この「神様の愛」を「謙遜」に生きる事によるのです。それは実を結ぶ「愛」であるのです。
 第三、クリスチャンはキリストの愛に生き、その愛の実を結び、「神の愛の実現」の実を結ばねばなりません。キリストはその愛の実を結ぶように育み、労り、助け、導いてくださるのです。使徒パウロは、「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」と記しました。(フィリピ2:1−5)主を信じるクリスチャンの教会は、御言葉に従い、信じ、聖霊の導きによってイエス様の愛、謙遜で一致し、失われている人々に心を尽くし、福音に生き、福音、神様の愛を伝え、愛に実を結ぼうではないか。
「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:13−14)


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