阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年2月8日
「愛と希望の神の国」
マタイによる福音書6章9−13節

  クリスチャンの一日は祈りで始まります。「主の祈り」は日々の祈りの基本です。それは「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(6:10)という御言葉に表されているように、「神の国」が今この地にあって、神様の御心が行われ、神様の御思いが実現されて、地上において神様の御心に適った現実がなりますようにという祈りです。神様の国は決して死後の国ではないのです。イエス様はある時、ファリサイ人の「神の国はいつ来るのか」という質問に、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われています。そしてヨハネの手紙T4章12節には、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださる」という御言葉があります。「神の愛によって人が生きるところに神はおられる」という意味です。神様の居られるところ、即ち、神の国がここにあると約束されているのです。人は、イエス様の十字架によって罪赦されて、初めて神に愛され、赦された自分を自覚できます。人を愛する事によって、和解の希望を持つ事ができるのです。神様の愛があるところに平和と和解の希望があります。この真実が神の国、天国の喜びとなって人類の希望となります。教会は、単に教える所ではなく、神の国に生き、神の愛に生きる所であるのです。神様の恵み、御国を証しする場でもあるのです。カルヴィンは、「母なる教会」と言いました。キリストによって示された神様の真実な愛の道を輝かす場であるのです。言い換えれば、生けるキリストが信じる人によって証しされる場であると言えます。
聖書の教えるキリストの教会
聖書に教えられている教会は、全てのクリスチャンによって成り立つ教会です。聖書は、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分(肢体)です。」(Tコリント12:27)と定義しています。更に、エペソ人への手紙には、「彼(キリスト)は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」(4:11−13口語)と教会の在り方の基本を教えています。
キリストを信じている一人一人が集められてキリストの教会が形成され、キリストの教えと使命が遂げられるのです。キリストは見えないが、信じるクリスチャンが形成する教会が、生けるキリストを証しし、宣べ伝えるのです。主を信じている人々の集まり、即ち、教会は、「あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている」(Tペテロ1:8)のです。キリストを信じる喜びこそ、命です。生きておられるキリストが教会に臨在されている事が、真実の教会です。
クリスチャンは、生けるキリストの使命を果たす為に奉仕の業をなす。そのために整えられる事になります。教会を形成していく上で、各自賜物に応じて仕え、ある者は御言葉を語り、御言葉を取り次ぎ、また御言葉を伝え、さらに教会の様々な働きを分かち合うのです。
キリストの体であり、一人一人がその枝である教会は、頭(かしら)はキリストそのお方であり、体もキリストそのお方であり、体もキリストそのものであることが解ります。
「信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致」が教会の在り方であり、目標であるのです。そのためにキリストの御心と教えの一致を目指し、クリスチャンはその使命の為に奉仕し、生きる事を求められるのです。使命の一致、生きる喜びの一致、霊的な一致、祈りの一致、願いの一致によって生けるキリストの教会を形成することになるのです。
キリストの教会の基礎的なあり方
 キリストの教会の命と基礎は、キリストの言葉、聖書にあります。教会の基礎は、キリストの言葉です。ですから聖書には「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵をつくして互に教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:15−16)とあります。この言葉に教会の基本的な在り方が提示されています。
その第一は、キリストの言葉を豊かに宿らせることです。教会、そして一人一人がキリストの言葉、聖書を豊かに宿らせる、即ち、読み、信じ、悟り、分かち合って生きる事です。御言葉が実践される、そこに生けるキリストの教会、生けるキリストが証しされるのです。
第二に、一人一人がクリスチャンとして「教え合い」「諭し合える」交わりが形成される事によって成熟度が証しされます。教え、諭すという事は、「してあげる」という縦の関係ではなく、互いにキリストにあって学ぶ姿勢です。この言葉の前半に愛の交わりとして教会の基本が示されているのです。
「あなたがたは、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3:12、13)更に、「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(3:14口語)とあります。 この教えを土台に、教会を形成するクリスチャンの基本的な「奉仕の在り方」をしっかり理解して、主の喜ばれる教会形成を願わなければならないのです。これによって教会の在り方が基本付けられるのです。
第三に、教会の奉仕の基本的な在り方の理解が不可欠になります。今日の教会には牧師職、伝道師職、教会の長老〈役員〉執事などの制度があります。これは世俗的な職階制ではありません。主は、「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:44、45)と教えられました。この御言葉は、教会における奉仕の基礎的な理解について示されています。ルターが「万人祭司説」(Tペテロ2:9)を示しているように、すべて主に召されたクリスチャンは主イエス様に聴き、教えられ、従い、祈り、罪を悔い改めて赦されているのです。今日では「万人伝道者」とも言い、すべてのクリスチャンはキリストの証人であり、宣べ伝える者として召されていると考えられます。教会での牧師や伝道者は、御言葉を取り次ぎます。御言葉を取り次ぐ説教は、たしかに「神の言葉を語る」事でありながら、“キリストに共に聴く”事であるのです。会衆はそのキリストの言葉に「応答する」事になります。そして教会がキリストの言葉によって一つにせられ、一つに生かされ、キリストを証しするのです。説教に奉仕する牧師や伝道者は、神の御言葉を取り次ぐという奉仕をなし、御言葉を取り次ぐという、主にある尊さのゆえに敬われる事になります。ですから牧師や伝道者は神の召命を受けて、会衆の祈りに支えられ、献身し、教会(教団)の信仰に従って学び、訓練を受けて御言葉に仕え、解き明かす訓練を受けて奉仕する人なのです。牧師は祈りの人です。会衆のために祈る人であり、会衆はキリストの御言葉を取り次ぐ牧師のために祈らなければなりません。教会の「一致の祈り」こそが、キリストの教会の尊さなのです。キリストの教会ではどのような奉仕も同じキリストの御体の働きであって、尊さにおいて同じであるといえます。聖書は目立たない奉仕こそ、尊ぶべき事を教えています。
「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって、『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Tコリント12:18−27)この御言葉のように教会での奉仕は、キリストにあって何一つ尊ばれないものはありません。互いに尊い事が分かります。
教会でお互いに自覚しなければならない事は、キリストが教えられている如く、「頭である人」は、僕であり、上に立つ人ほど仕える人になり、自分の命を与えるほどの犠牲をもって仕える。「偉い人ほど仕える人である。」(マルコ10:43、44)という事なのです。これがキリストの教会の在り方の基礎である事を忘れてはなりません。キリストは、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(ピリピ2:6、7)それは神の謙遜であり、人に対する愛の証しです。奉仕は神を愛する証しです。キリストの示された愛と謙遜に対する応答が奉仕として表され、教会が形成されるのです。
健全な教会は相互牧会で成長する
キリストの教会は、キリストの愛と謙遜によって「教え合い」、「諭し合う」事により成長していきます。キリストにあって相互牧会が自然になされていく、これが聖書の示す教会の在り方であるのです。
そこで、クリスチャンの成長の目安は、教会での奉仕ができる人になっているかどうかなのです。人は赤ちゃんから成長しますが、先ず、身の回りの事ができ、学んで生活できるようになります。
やがて自立して社会人となり、家族のため、社会の為に役立つ人になる。それが「成人」、即ち、人となるといえるのです。人として先ず自立する事であり、そして人の為に生きられる人となって、初めて社会人といえます。クリスチャンは、キリストの体としての教会の一員であり、肢体の部分としてキリストの役に立つ人、「奉仕のできる人」である事と、「伝道できる」人となる。これがひとつのクリスチャンとしての成長のバロメーターであるといえます。
初めの第一段階は、手紙をもらったり、訪問を受けたり、誘われたりする事から始まります。そして集会に出席し、終ればすぐに帰ります。
第二の段階は、教会の交わりに加わり、皆とともに祈れる人になる。聖書のデボーションが始まる。礼拝を守り、祈祷会に出席する。
第三の段階として教会の奉仕をし、その喜びを分かち合うクリスチャンとなる。奉仕は神への愛と感謝、そして何よりも信仰の恵みによる献身を表すものです。キリストの為、人の為に役立つ奉仕は心の喜びとなります。喜びは生きる充実となり、クリスチャンの命として意欲となります。奉仕はクリスチャンを更に成長させる事になります。責任の重い奉仕であればある程、大きな喜びとなるのです。
奉仕をするに際しては、色々な試練もあるかもしれません。しかし、その試練に出会う事が訓練の機会となり、その事を通して、更に、信仰が強められ、成長するきっかけとなることを忘れてはならないのです。奉仕はクリスチャンに与えられた特権であるといえるのです。
どのような奉仕も、キリストの教会には無くてはならないものです。それをしっかりと心に留めようではありませんか。
「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・・・体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分をもっと見栄えよくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体(教会)を組み立てられました。」(Tコリント12:22-24)教会の成長は一人一人の奉仕の集合の実といえるでしょう。クリスチャンの願いは「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Uコリント5:9)この御言葉に尽きるのです。



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