阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年2月15日
「幸せな生活の土台」
創世記1章1−28節

  人は、自分は自分自身で生きていると思っているのが普通ではないだろうか。生かされて生きていると思う人はいないと言って良い程であろう。確かに人は生きる為に工夫をし、食べる物を求め、着る物を工夫し、住まう為の住居を備えなければならない。生きる工夫を考え、求める、そこに知恵が求められます。しかし、それは生きる為の自然がすでに備わっている事が前提としてあるのです。言い換えれば、人間は生きる事ができる環境を、すでに自分の存在の前に与えられているのです。人は空気を吸って生きます。食事をして体力を維持します。空気も、水も、食物もすでに自然の中に備えられているのです。その事だけでも人は生かされていると考える事が出来るのです。聖書には「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)とあります。すべてのものは神が創造されたとしか言いようがありません。不思議な自然の存在の中で人が生きられるように、すべてのものが備えられているのです。今日の科学的な思想の世界では、神様を信じる事は時代遅れのように言う人もあります。それは証明できるものしか「存在」を認めないのです。しかし、現実の生活には小さな世界において、また大きな宇宙においても、人間を超えた果てしない未知の分野がある事は解っています。そして人は、生まれて死を迎える有限な存在であるのです。死に直面する不安、現実の生きる苦しみ、病気の苦しみ、そして老いて自分の死を迎える時、孤独と不安、消滅のむなしさ、離別の悲しみを切実にし、人生の苦悩はどのような人にも安心立命を求めさせるのです。ある人類研究学者が、多様な人種を研究したところ、共通している事は、どんな世界でも人間のいる所に「宗教」があると結論付けました。人は、生きる事への「安心立命」を求め、命と体の消滅に不安をいだくのです。
 人は、おかれた風土の中で、まず、自然に支えられている事に気づき、その自然の尊さを大切に思い、拝むようになるのです。水がなくては生きられない、水こそは神様である。滝や川をご神体とするのです。水は山の雪から流れ、命を人々にもたらすとの思いから、山を聖なる場、神の宿る所として礼拝するようになり、生活を支える家畜を神のお使いと考えたり、終(つい)には森羅万象が人を支えている命の源として、「八百万の神」の習俗が人々の意識になるのです。ですから、日本では信仰といえば「イワシの頭も信心から」「何様がおわしますかも知らねども、ただありがたさに首(こうべ)うなだる」という諺にもなっているのです。太陽や月を拝む事も、習俗として人の情緒にさえなっているのが日本人の宗教心と言えます。
 また、人は生きる事のむなしさから、どうしたら解放されるかを求めるのです。釈迦はインドの小さな王国の王子として生まれ、何不自由なく育てられてきたのですが、ある時、城を出て領地の村々を巡ると、人が疲弊して働く姿を見、なぜ人は働かなくてはならないのかと疑問を持つのです。そして、しばらくすると道に倒れている病人を見ます。そして老いて行く老人の衰え果てた姿を見て、なぜ人は病に苦しみ、老いて行くのだろうと、深い疑問を持つのでした。そして、人々が人を葬る葬儀に行きあい、なぜ人は死ぬのかを問うのです。この生老病死の姿を通して、この苦悩から安心立命の道を求めるのです。そして人生に「悟る」事こそ、「あらゆるものから解放」される「解脱(げだつ)した者」、すなわち「仏」になるとしたのです。これをもとにして仏教の様々な教えが生まれます。仏教は人間の経験の中から、洞察と思考によって悟る「哲学」であると言えます。ですから仏教の事は、文化的宗教と言います。そして山や、滝、自然を神とするのが自然宗教と言います。
 聖書の、「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)という御言葉は、人が現実の中で人の経験を超えて、神の存在と存在の根源を認識させられる御言葉であると言えます。そして、神実在を実感し、すべての存在とその意図の真実を示すのです。これを「啓示宗教」と言います。言い換えれば宗教とは人の経験からできた思想であるのです。しかし、聖書の示している神様は、「存在の初め」であって、「存在と命の根源」の創始者であると言えます。神様は決して見えるものではなく、存在と命の根源を意図されるのです。ヨハネによる福音書に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)とあります。「言(ことば)」とは、ロゴス、「理性」であるのです。理性は理解する能力です。人は、神に似せて造られているからこそ「理性的」であると言えます。しかし、人間は有限です、理解できない事も多くあるのです。しかし、神様は天地森羅万象を創造されて、それらの存在の中に原則を作られているのです。人はその原則を発見し、組み立てて科学するのです。人間には自然の原則を創造する事はできません。創造主なる唯一の神、命と存在の根源である神こそが、真実の神であると言えます。創造主なる神は、人間経験から出来た「宗教」ではなく、真実の「命の道」であることが分かります。
自然の森羅万象を整えて、人を「御自分(神)にかたどって創造された」(1:27)のでした。そして「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(:28)という御言葉が教えているように、神様は人に自然を「支配」する、即ち、管理し、生かし、育て、育む事を「祝福」という言葉で表し、委ねておられる事が分かります。そして、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。」(:31)という御言葉は、正に神様の御心の表れとして、「極めて良かった」のです。それは神様の「満足であり、神の「嘉された」事なのでした。言い換えれば、そこには美しい「調和」があったのです。
 天地の創造は光に始まって、地を整え、植物を整え、生きるものが生きられる環境を整えて、人が生きる為のすべての条件を備えられたのです。その意図は、人が「生きる」、生活できる可能性を備えられたのです。言い換えれば、「人が生きる」、幸せに生きる諸条件を備えられたのです。正に、これこそ「神の愛」によるのです。聖書は繰り返し「神は愛である」(ヨハネ3:16、ヨハネT4:8,16)と証しています。
 「神は、御自分にかたどって人を創造された。」(創1:27)この御言葉は決して人の姿かたちを意味するのでなく、人間の本

質的な存在のありかたを意味しているのです。「神は愛である」と共に、人も神に似せて造られたのですから、神の愛に生きる事によって、神様の約束される調和と平和を生きる事になるのです。そして神様は、「創造主なる神」である事からも、人間は有限ですが、与えられた創造の自然の原則を見極め、生活と人生を絶えず新しく創造する力を与えられているのです。
 命と存在の根源としての神様が、万物の創造の父として「愛なる方」である事を受け入れ、信じる事によって、神様の意図される真実の平和と解放が約束されるのです。命の根源なる生ける神を信じ、従う時、神様の祝福が回復されるのです。
生活と人生の土台は、創造主にして愛なる神に根ざすところにあるのです。その神の愛が、真実に、事実として証されるのがキリストの出来事であるのです。キリストを通して神様の真実の愛が証明され、憎しみと対立、意味のない殺戮と恐怖の坩堝が溶解するのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネ3:16)

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(15:13)「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン」(15:33)




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