阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年2月22日
「活ける神の愛と命」
詩編139編1−10節

  人にとって命は生きているという証しです。命は生きる力、エネルギーです。生きている事で考え、思う機能が備わっているのです。この命と生きる術(すべ)を考え、思いめぐらして生き、そして様々な事を決めて生活します。感じ、知り、意思をもって生活ができるのです。それを人格と言います。それは見えないものですが、現実に存在するのです。見えない人格でありながら人間が人間である事の特性がそこにあるのです。人間の中心的な存在のありかたであると言えます。それを霊性と言います。言い換えれば人間は霊的な存在という事です。
 旧約聖書の創世記1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあります。そして2章7節でその創造について記されているのです。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」人間の現実のありかたの実相が示されているのです。人は土で形づくられ、神は息を人の鼻に吹き込まれ、そして生きる者となったというのです。この息は、聖書の言葉(ヘブル語)ではルーハーといって、「霊」を表します。人間は神の命、即ち、「霊」を吹き入れられて生きるものとなったのです。言い換えれば神様の霊性、命によって生きるものとなったのです。
 聖書は「神は愛です」(Tヨハネ4:8、16)と教えています。創造の思いは神様を表す事にあり、創造の意図は「神は愛である」事に他ならないのです。愛は、愛する者と愛される者によって成り立ちます。すべての創造主なる神様は、また創造の根源として、すべての存在の「父」であり、「父なる神」としてご自身を表わされています。神様は父として創造の全てを「愛」もって慈しまれている事が分かります。そこで神の本質は「愛」である事が分かるのです。「愛」の真実は生きている事に他なりません。創造主なる神様は愛であり,活ける神であるのです。それは霊性に裏付けられた命であると言えます。創造主なる神は死んだ神ではなく、活ける神であられるのです。
 世界は16世紀から近世になるのですが、17世紀ごろから啓蒙思想となり、近代の科学的な考えが支配するようになります。科学的な考えは、存在を証明できないものを存在するとすれば迷信であると見下げ、否定するようになります。この森羅万象を創造された神は、完成して天に帰られ、現実にはおいでにならないというように考えるようになり、これを隠居の神といいます。そして人間の力で神の国、理想の国を作れるという考えになる傾向でした。確かに産業革命以来、人類の目覚ましい進歩がありました。しかし、一方では、未開な地の人々や、自分の国を守れない人々を踏みにじるようにして戦争が起こり、世界中が地獄、すなわち神のおられない凄惨な混乱に陥入り、原子爆弾の悲劇で多くの人々は目覚めるのです。見えない命、人の愛と平和、神様の恵みと愛に目覚めなければ希望がない事に気付くようになります。真実の神様の御心である「愛」と「命」がキリストによって回復される事をもう一度見出すようになるのです。神様は「活ける」方であり、創造の父として「愛」を示して下さる方であるのです。真実の愛は「責任」に裏付けられた「愛」です。神様の真実の愛は、責任によって証しされるのです。
 神様の愛は、「責任」が裏付けられているのです。その「責任」に偽りがあっては、実体がない事になります。責任とは、「誠実」、嘘のない事が保証となるのです。愛と責任と誠実が一つとなって「愛」は真実であると言えます。
 この事から神様は、「聖」なる方であるのです。真実の愛は「聖」なる愛です。この事を「神様の御心」と言い、神様の戒め、道、教えが示されるのです。人間は神様を信じる事をせず、神様の存在を認識しない時には、自己中心になります。自己欲が生きる中心になる時、駆け引きの人生に陥る事になるのです。自分ではそんな事はないと思いながらも、人の生活というものは、利害相関で動いてしまいます。
創世記の人類創造の出来事において、エデンでのアダムとエバは、すべての木から取って食べて良いが、「善悪の知識の木」からは決して食べてはならないと、神様の御心を生きる証しとして食することを禁じられていたのです。しかし、禁じられているものに魅かれて、「戒め」を超えてしまうのです。この出来事は、神様の御心を拒絶し、根源的な自己欲に支配され、振り回される人間の姿を示しています。神様が、人間が生きる道筋、目標として示されている「戒め」を拒み、道を踏み外しているのです。その罪によって、アダムとエバはエデンの園を追放されてしまったのです。聖書の罪という言葉は、ハマルテァ、ーと言いますが、それは「的を外す」という意味です。またほかにも罪はパラバーシスとも言って、「脱線」を意味し、道を踏み外す事を指し、罪過、過ちを意味します。神様の道を踏み外す事であって、脱線は、破壊と壊滅を意味するのです。
人間の歴史や日々の生活は、争いと諍い(いさかい)が絶えないという現実があります。神様が、愛をもって生きるように人を創造されたのに、神様の道、「約束」を踏み外し、神様から離れ、神様を見失ったところから、人の道を失い、自己欲望の混乱の中を彷徨うのが、人の現実となってしまいました。言い換えれば、神様を見失う事こそが人間の悪の根源、「罪」で、人間の本当の姿であるのです。神は愛であるゆえに、破滅と絶望の中にある人間を回復し、救う為に、活きておられる神を遣わされ、真実な愛を証明されるのです。見えない神が見える人の姿をとられて神の道を示された出来事こそ、イエス・キリストの出来事であるのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ4:9、10)
 神様は活ける神であるのです。そして、共にいてくださる方です。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」(詩23:4)
 それだけでなく、共にいて一人一人の存在のすべてを知り、理解し、求める者に答えて下さる神様であるのです。
「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(詩139:1−4)
 神様は創造主して父なる神であり、愛にして聖なる神、霊にして、如何なる所、如何なる時にも共にいて下さる神、共にいて理解し、助けて下さる神、如何なる事も愛をもって解決と救い、希望を与えて下さる方であるのです。
全能の神に、全知の神に、愛にして活ける神に栄光があるように!!! ハレルヤ!!  



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