阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年3月1日
「活ける神の愛とキリスト恵み」
マタイによる福音書5章43−48節

 私たちは礼拝の度ごとに信仰の告白として、「使徒信条」を告白します。その冒頭には、信仰の最も根幹である「神様」について「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と告白します。
私たちの信じている神様は、「天地の造り主」です。宗教には、一神教、多神教、八百万の神というように、様々な形態がありますが、聖書が示す神は「創造主」、天地の造り主であるのです。人間が洞察し、考察し、推理して構成するのが宗教であると言えます。それは哲学であり、文化であると考える事ができます。しかし、「天地の造り主」とは、考えて出来たものではなく、洞察して存在したのでもありません。自分が今生かされていて、すでに存在している天地、それらを創造された方を実感し、悟り、受け入れる事によって生きる道を示され、創造主なる神様に出会い、信仰が芽生える事になります。
 天地を創造された神様は、全能の神です。そして、全ての存在の根源として全てを生み出された事から、存在の父としてご自身を現されています。自然の仕組みの中で、愛おしまれる父としての神様は、生きとし生ける全てのものを生かす為に、その存在の如何を超えて恵みを注ぎ、支えられるのです。そこに神様の本質的な「愛」が存在と命の中に表されています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)この御言葉に表されているように、人の社会は善悪で人を区分けし、その行いによって裁き、制裁します。しかし、この御言葉には神様の見えない思い、愛の配慮が示されているのです。雨や太陽の光は、人間の善悪に関係なく、いやそれを超えて悪人であろうと、善人であろうと全く関係なく「雨」を降らせ、「太陽」の光を照らされるというのです。神様は善悪を無視されるのではなく、人間が生きる事の中で、「善悪」によっておこる諍い(いさかい)、憎しみ、憎悪、対立、裁きなどの応酬があっても、人が生きる上で必要不可欠な水と熱と光をもって命を支えられる事を表しているのです。
そこでイエス様は、伝統として守り続けている「隣人を愛し、敵を憎め」(レビ19:18)という律法に対して、「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。…自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」(5:44、46、47)と言われています。律法を知らない異邦人や、ローマの手先になっている収税人でも、仲良くしている隣人や仲間、また愛してくれる人を愛し、挨拶をかわしているではないか。それは神様を知らない人でもすることではないか。あなた方は神様を信じているというのなら、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われるのです。神様の御心は真実の愛をもって「平和」を回復する事にあるのです。人は憎しみによって敵対し、利害相関による闘争、支配欲の軋轢(あつれき)、復讐の怨念(おんねん)など、様々な対立があります。そこに殺意が生まれ、破壊が生じます。神様は平和と調和を創造の基本的な思いとされているのです。「汝の敵を愛せよ」、赦す事のできない敵、受け入れられない敵を赦し、受け入れ、和解せよと言われるのです。言い換えれば、理解できないものを理解し、憎しみの心情を超えて受け入れ、和解し、和合するのです。その基本は赦す事にあるのです。
そこで主イエスは最後に、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(:48)と言われています。しかし、父なる神様が愛において完全であるように、人が完全になる事は不可能であると言えます。その不可能を可能にする希望を神様は備えて下さっているのです。神様の御心である聖書を理解する為の基本的な読み方は、「命令の言葉」は「約束の言葉」として読む事によって、その御心を理解できるのです。言い換えれば神様の言葉の「命令」は「約束」であるのです。「父なる神が完全であるようにあなた方も完全なものとなりなさい」は、「父なる神様が完全であるように、あなた方を完全なものにしてあげよう。」という約束であるのです。
神様は創造主であり、全能である。いかなることも可能である。そして全知であり、「霊なる神」として命の根源であって、「偏在」の神様です。共におられる神であるのです。そして、その根本的な存在は「愛」なのです。そして、「汝の敵を愛せよ」という、人間の限界を超えた、即ち、憎しみと確執を克服する平和の奇跡を示されるのでした。
起こりえない事、見えない神様が見えるという出来事を通して、見えない神様の愛を示し、人の回復の道、救いの道を示されたのがイエス・キリストの出来事であるのです。
 「イエス様は叫んで、こう言われた。わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方(神様)を見るのである。」(ヨハネ12:44、45)。神様が人となる出来事、奇跡、起こりえないと思う人間の知性を超える出来事が起こったのです。愛の奇跡、神の愛が見える形で実証されたのです。神様の愛が実証され、それは神様が現実に生きておいでになる証しであるのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネT4:9−12)
 イエス様は、神様が全能である事を多くの奇跡を通して証しされました。神様の真実の愛の教えを語られました。そして神様の限りない御心として、敵を憎むという人間の赦し得ない無限の争いと破滅を救う、和解と赦しを説かれました。律法によって人間の罪の現実を示し、どのような人間も赦されて初めて赦せる救いに導かれたのです。イエス様は、律法によって救われるのでなく、赦す事だけが救いの道である事を示されるのでした。イエス様は、最後に十字架にかけられ、罵倒され、嘲られ、鞭打たれながら「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ23:34)と祈られたのです。イエス様は神様の愛を教え、神様の愛に生き、神様の愛を実証されたのです。神であるがゆえに、その命を十字架にさらして犠牲となられたのです。人々は見えない神の愛を、イエス様によって見る事ができたのです。
 神様は活ける神です。神を忘れ、神を否定し、神を侮る(あなどる)傲慢(ごうまん)にして、罪深い闇を彷徨(ほうこう)する人間をも愛し続けられるのです。そこに希望があります。
イエス様の教えられた祈り、「天の御心が地にもなるように」、神の国が地上に実現するようにという願いは、イエス様の「愛し合って生きる」、この戒めによって、神様の臨在を経験し、実現するのです。主イエスは「あなた方が愛し合うところに神はおられる」(ヨハネT、4:12)と言われました。そこに真実の和解があり、平和を生み出す事になるのです。
わたしたちが信じる神様は創造主、命と存在の根源、全能の神であるのです。全能である神は全知であり、偏在の神であり、今も生きて共に居て下さる「愛」なる真実の神です。
「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。」(イザヤ45:5)「背く者よ、反省せよ、思い起こし、力を出せ。 思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。」(イザヤ46:8、9)
真実の神様に栄光があるように!!
全能の神様に限りなく栄光があるように!!!
永遠にみ名が崇められんことを!!!


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