阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年3月15日
「永遠の命に真実に生きる幸せ」
ルカによる福音書15章1-32節

  最近、世情を騒がせている歴史認識問題は、悲しい問題でもあり、厄介な問題でもあります。朴槿惠(パククネ)韓国大統領による日韓友好交流の前提の、「正しい歴史理解に基づいて未来志向に…」という発言に、「正しい歴史理解」が得られないために、未来の道筋が混乱している現状があります。朴政権の政治目標の一つに、「国民幸福」があります。現在、世界的に国民の幸福は近隣の国々、皆がそれぞれの国の歴史と文化を理解して、平和と幸福を共有する事にあります。「歴史の理解」とは何であるかとの独自の基準をもって「正しい」と決めつける事は難しいと言えます。「歴史は解釈」であると言います。過ぎ去った日々を今の自分の持っている考え(価値観の都合)で解釈し、それを絶対的に正しいと決め込んでも、様々な国々の歴史と文化の中で断定する事は世界的にできないのであって、誠実に認め合いながら「赦し合い」、和解する事で平和の道が開けると言えます。日本には昔から「水に流す」という習俗文化があり、国民の和合の知恵とも言われます。しかし、それは物事をあいまいにして、見過ごすという流れにもなるのです。
ともあれ、20世紀の100年間の学問や科学の進化で、かつては出来得なかった事が可能となってきたのです。人が空を飛ぶ事、遠くにいる人と無線で通話ができる事。映像が映り、テレビは額縁になり、自動車は水(水素)で走るようになったのです。最近、PHP出版より出された「エクサスケールの衝撃」(斎藤元章著)という本には、今開発されている超スーパーコンピューターが創り出す新しい世界が紹介されています。自然物質に依存しないエネルギーの開発で、電気や石油に代わる熱源の開発、その熱源による無土栽培での全ての食料の補充、サイバーによる防護兵器により原子力兵器、ミサイル等を持つ国の破壊、無兵器国家の優位性、そして医薬品の加速的維持生命機能の開発によって、今後15、16年の未来には、不老長寿の可能性と不死の見通しなどが可能であるというのです。それは決して夢ではない、現実的で今現在進んでいる科学の世界です。
 正に、人類は究極の科学の極致と言うべき理想を目指していると言えるかもしれません。しかし、現実には、人類は道具の進歩と共に持てるものと持たない者の争いとなり、持てる者は富を蓄え、富は武器となって、弱者を支配し、収奪するようになり、やがて帝国が生起し、国ができ、科学の究極の原子力の発明が破壊と戦争の足跡を残しました。和合と平和のため国際連盟が生まれて70年、しかし、その後も現実には冷戦は続いたのです。その終わりと共に、依然として民族意識の台頭や宗教文化の齟齬(そご)による悲しい不気味なテロの不安に世界は慄(おのの)かなければならないのです。
 人権は守られ、福祉や教育、医療は充実している平和日本でありながら、現実には理解しがたい少年の虐殺、平穏な淡路の集落での多数殺人、死を願望する秋葉原の青年の無差別殺傷事件など、数えきれない悲惨な犯罪が起こっているのです。人間の現実的な歴史の実相は破壊と混乱、不安と絶望であると言えます。キエルケゴールの著書に、「死に至る病」というのがあります。そこには「絶望とは死に至る病である」と書かれています。科学が進歩して「不老長寿」が達成しても、「絶望」の生活であるならば、生ける屍であると言えます。破壊と不安がなくならない、犯罪を生み出す現実には真実の解決はないのです。
ルカによる福音書15章には、福音の神髄と言われる「放蕩息子」の話があります。15章の冒頭にあるように、「徴税人」や「罪人」たちがイエス様の話を聞こうと集まって来ました。イエス様が話そうとすると、その人々を批判し、イエス様の矛盾をさがし、批判しようとするパリサイ人や律法学者が不平を言いだしました。「この人は、罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている。」(15:1)イエス様は、ファリサイ派にも神様の真意を伝えようとされたのです。「徴税人」というのは、当時の徴税は今日のような法的な公平性のあるものではなく、ローマ司政官が地域による課税額を傀儡(かいらい)であるユダヤ人徴税官に委託し、徴税役人は自分の取り分を上乗せして徴収する仕組みであったようです。同じユダヤ人でありながら、ローマの手先になって民を苦しめ、当時は神殿に収める十一献金さえ停止するローマの政府が許せない心情であり、彼らこそ神への冒瀆者、「罪人」であるとされたのです。律法を学び、諳んじているパリサイ派の人々や律法学者たちは、「律法」を知らない庶民を、律法を知らない、だから守らない、即ち、罪深い人々と嘲笑(ちょうしょう)したのです。徴税人たちには、激しい差別と軽蔑がなされ、裏切る者、穢(けが)れた者としての中傷が日常化していたのです。その社会には同じ神の選民であるのに、理解や憐れみはなく、裁きと批判、攻撃と差別があるだけでした。言い換えれば、罪人には、神の救いはなく、神様の裁きによる滅びだけがあると言われていたのです。
 父なる神様は、天地の創造主であり、命と存在の根源であるのです。そして創造主は、「愛」にましまし、「霊」にして活ける方であるのです。愛であるゆえに、創造された者を生かす命として被造物を愛されるのです。神様は死んだ神ではなく、霊として生きて働き、その霊こそは神のいのち「愛」であります。
 徴税人たちは、罪人と呼ばれて卑屈になり、絶望に苛(さいな)まされているのですが、確かに自分は罪深く、汚れており、律法学者やパリサイ人に指摘されてもどのようにして自分を改善し、救う事ができるのか悩み苦しんでいたのです。イエス様は。繰り返し言われていました「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神様の戒めを知っていても、知らなくても、人は厳密には心の中は暗く、闇に閉ざされている。律法を知っていようが知らないでいようが、所詮、人の心は暗く罪深いものである。イエス様はだからこそ、どのような人間も「罪を悔い改めて」、幼子のようにきれいに、純真になって、神様の前に罪を悔い改めるならば、神様は「愛」もって赦して下さるというのです。この神の御心に対し、「罪」ある人間を批判し、断罪する律法学者をイエス様は諌(いさ)められたのです。
ルカ伝の15章には3つの例話が示されています。まず有名な「失われた羊」の例え話(:1-7)。1匹の羊が迷い出て、羊飼いは捜し歩くのです。羊は、戦う術を持ちません。いつも集団で行動します。1匹になると自分の帰る場が分からなくなるのです。羊飼いは99匹の羊を野原に残して、1匹を捜し当てるまで危険をも顧みず野を巡り歩くのです。そして発見し、助けて連れ戻すのです。この羊飼いこそ、全ての人に向けられた神様の在り方です。羊飼いは命を賭して1匹の羊を求めます。その1匹が、残された99匹の羊と同じく大切であり、愛されているのです。この迷い出た羊を「悔い改めた」罪人として語られているのです。人間は、明らかに恐るべき罪を犯す事もあるのですが、迷える羊のように無意識の中に、心の奥深く様々な罪を犯すのが人の心の実態です。使徒パウロは現実の人間を洞察して、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ロマ3:10-12)と明示しています。苦悩する人間に救いの道を示し、導かれる神、そこに神の愛の実在が示されているのです。
 第二の、譬えは「失われた銀貨」です。ドラクメ銀貨を10枚持っている女の人がいます。その人は1枚の銀貨を失ったのです。見つけるまで徹底的に探し出そうとするのです。探し当てた時には、周りの人を集めて「喜び」を共にするのです。喜びを分かち合うのです。ここでも1枚の「銀貨」を擬人的に表し、それを発見した時の喜びようは、失われた罪人が罪赦された喜びであり、身近な人たちだけでなく、天国に喜びがある。言い換えれば父なる神様が喜ばれる事を表しているのです。ドラクメ銀貨(ギリシャの通称)は、デナリと等価であると言われます。1銀貨は4デナリ(ローマの通称)で、四日分の労務賃金であるのです。その尊さを思い図り、その発見の時は限りなくうれしい事であったのでしょう。人が救われる。神様の元に立ち返る事がどれほどの喜びかを現しています。神様の愛の恵みはすべての人の喜びであるのです。
 そして最後に「放蕩息子」の譬えです。父に育てられ、守られている時には愛を自覚出来なかったのです。自己欲に惑わされて放蕩の道を歩む姿、誰も教えず、導く者のない孤独、欲と放蕩で自らを見失しない、持ち金が無くなり、生きる事もままならなくなって、初めて真実に父の愛が見えてきたのです。今、人間は、生かされている自分を自覚し、創造主なる父なる神様の愛に目覚めなければなりません。
 どのように科学が進歩して、豊かになったとしても、人が愛なる神様を離れて自己欲によって生きれば、闘争と破壊の連鎖に過ぎない事は歴史が証明するところです。そこには不安と絶望しかないのです。不老長寿が実現しても、「生きる」事が苦悩となるだけです。地球と宇宙には終末、終わりがあるという事は、地球物理学の定説です。聖書は明白に示しています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)死という、命の終わりは形の終わりです。しかし、肉体、形は消滅しても、人間の霊性としての人格の存在は永遠に生きるのです。形(形相)はかわっても、実体(実相)は永遠です。神様を信じないで自己欲に生きる事は、死は消滅であり、未来の断絶、絶望であり、孤独と不安の連鎖であって、正に、絶望こそ無限の地獄であるのです。それは根本的に神を見失い、自己欲によって生きるという罪に生きる人の悲劇であるのです。
 神様は愛です。愛こそ人を生かす命です。父なる神は、人々を回復するために、救いの道を示されるのです。それがイエス・キリストの出来事です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フイリピ2:6,7)神が人となる出来事を通して、真実の神様の愛をキリストの生涯を通して現して下さったのです。罪の根源は神様を忘れ、否定し、侮り、真実に愛し合って生きる事を見失っている事です。
 イエス・キリストは、神様の愛と罪の赦しの道を示しながら、人々の無理解、反逆の中で、十字架に架けられ犠牲となられたのです。神の死という犠牲によって神の愛を示し、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と言われた言葉に従って、主イエスは死んで3日目に甦られたのでした。改めてヨハネによる福音書3章16節の御言葉を心に留めなければなりません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」永遠の命とは、現実に神様を信じ、受け入れるところに回復する命です。永遠の命こそ、神様と共に生きる存在であるのです。神様の命、神様の愛に生きる。そこに神様はおられるのです。神様のおられるところこそ、「神の国」天国です。そこには永遠に変わらない神の国の希望があるのです。神様のおられるところ、神様の愛があるのです。愛は、赦し、和合、調和の回復、一致、真実の平和を約束するのです。今を永遠に生きる事こそ、永遠は希望の源として輝くのです。
放蕩息子は自己欲と放蕩、破滅と彷徨の惨めさの中で、真実の父の愛に気付くのです。それは神様に気付くクリスチャンの姿です。そして、罪を悔い改め、回心して、父の元に帰るのです。父は、息子を待ちわび、無事を祈り、本心に立ち帰る事を願って待っているのです。そこに真実の愛なる神様の御姿があるのです。父の家には世界がどのようになっても平安と充足があり、安らぎがあるのです。いつもどのような時にも神様の御言葉と愛に生きて参りましょう。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)



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