阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年3月22日
「神の愛と希望の道」
マタイによる福音書21章1-11節

  長くて寒い日が続いた冬も、やがて2月になれば梅が咲き、3月の終わりには桜の花が咲き始めます。そしてイースター(復活祭)になります。今年は4月5日がイースターです。受難週は29日から始まります。受難週の聖日は「棕櫚の日」と言います。イエス様は、生涯の最後の一週間、エルサレムの神殿で人々を教えられるのです。今日は、棕櫚の聖日の一週間前ですが、受難週の日曜日にはイエス様が十字架に架けられる受難日の出来事を通してその生涯をしのぶことにして、今日は棕櫚の日の出来事から主の御心を学ぶ事にします。
 イエス様の生涯の最後の一週間は、正に劇的であったのです。王としてエルサレムに入城され、神殿の庭で最後の教えをされました。人の生き方、復活の約束、再臨の希望、偽善に生きる空しさなどを教えて、神様の赦しに生きるという愛の希望を示されたのです。弟子達と最後の愛餐の時を持ち、神様の愛を信じて罪赦され、皆が心を一つにして真実の平和が実現する事を教えられたのです。
イエス様は、エルサレムに入られる時、弟子たちに、近くの村に行くと、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかるから、それを連れてきなさいと命じられます。もし誰かが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言うと、すぐ渡してくれるというのです。そしてイエス様は、ろばに乗ってエルサレムに入られるのです。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5、ゼカ9:9)と、王はろばに乗って来られると預言されていたのです。そこに神様の示される、限りない意味をくみ取ることができます。
ロろばは、「愚鈍」「愚かさ」を象徴しますが、穏やかでおとなしく、小さい体で重い荷を運び、忍耐強く働き続けるのです。その形や性質から、王が堂々と行列し、睥睨するのに、ろばを用いる事は決してありません。そのような時は、より優れた駿馬を用いるのが当然であるのです。しかし、イエス様は、親子のろばを弟子たちに連れてこさせ、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入城されるのです。イエス様は、背の低い子ロバに乗って、足が地面を引きずるような不恰好な姿ではないかと思えます。弟子たちは、自らの衣を子ろばの上にかけ、鞍の代りにするのでした。何とも滑稽な姿。人々は棕櫚の葉を手に手に振って、王を歓声で迎えるのです。イスラエルでは、慶事には棕櫚の葉を丸くして振りかざして祝う習慣があったのです。人々は、「ダビデの子にホサナ、いと高きところにホサナ」と言って迎えるのです。「ホサナ」という意味は、「救ってください」「助けてください」(ホーシーアー・ナー≪へブル≫)という意味ですが、やがてホサナとなって「栄光あれ」、「ごきげんよう」という言葉になったと言われています。栄光ある救い主である王が、ダビデ王の家系から出る事を、イスラエルでは伝承されていたのです。人々は王としてのイエス様を、国を救う王として称えて迎えているのです。子ろばに乗られているイエス様です。人々はこの滑稽な姿を真面目に、素直に受け入れているのです。それは預言者ゼカリヤ(旧約聖書)から言い伝えられている事が、今実現しているという群衆の熱い心の思いがあったのです。この方こそイスラエルの救い、ユダヤをローマの支配から解放する王であると信じていたのです。
しかし、イエス様の王としての姿が、このろばの形の中に語られていたと言えます。第一に、ろばは、人々に「愚か」であり、「愚鈍」と蔑まれていながら、役立ち、有益な生活の必需性を持っていました。言い換えれば、ろばがいなくては生活が成り立たない位、大切な家畜であったのです。預言者が、ろばに乗って王が来られると語ったメッセージは、人々に理解されず、受け入れられず、見下されてもなお黙々と仕え、支え続けられる、「愛なる神」を表していると言えるのです。神の御子イエス・キリストは、救い主、王として、ろばを用いられたのです。預言者イザヤは、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(53:3)キリストの受難をろばの姿を通して見たのでした。オリーブ山のエルサレムの東門に向かい、ケデロンの谷を子ロバに乗って行かれるイエス様こそ、勝利と栄光の王の行列であり、ろばの意味する王の歩むべき平和を実現する苦難の道であったのです。
子ろばに乗って足を引きずるようにして進まれるイエス様を人々は、「ダビデの子にホサナ」、と称えながら、その栄光がどのようなものかわからず、「救ってください」を叫び続けるのでした。
やがてイエス様は、エルサレムの神殿の庭で、毎日、最後の御言葉を人々に告げられるのです。そして、弟子達に最後の教えを語り、最後の祈りをして別れの食事をされるのです。
 イエス様は、律法を守っていると言いながら人を裁き、正しい生活をしていると言いながら人を差別し、見下すような偽善性を批判し、神様の前に心から自分の罪悪を認め、真実に心から悔い改める者を、愛なる神は赦して下さると教えられたのです。エルサレムには律法学者や祭司、パリサイ人(律法厳守派)たちが、「律法」を完全に守る事に固執し、決して妥協せず、民衆を批判し、見下し、差別しているのでした。実は、批判、差別こそ罪であることに気付かないのです。その批判こそは、神様の愛、恵み、憐れみを拒絶するものであるのです。イエス様は、この矛盾に気づかないエルサレムの人々の批判を受け、告訴され、辱めを受けられるのです。
 ろばに乗られた王は、人々の罪の贖いとして、十字架につけられるのです。ろばが象徴するように、ひたすら真理の証しのために黙し、現実の世の仕組みの愚かさを正しながら、真理をつら抜き、この世の裁きの矛盾に耐え、克服し、様々な辱めを受けながら、全能にして、愛なる神として、十字架の裁きの道を歩まれるのです。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(ガラテヤ2:15、16)この御言葉のように、誰一人、行いによって正しい人になる事はできないのです。エルサレムの人々は、イエス様を罪人としたのですが、神様を罪人とする事についてわきまえず、裁き、イエス・キリストを十字架につけたのです。しかし、イエス様は敗北の王であったのでしょうか。そうではなく、復活を予告し、事実、イエス様は死んで後3日目によみがえられたのです。主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と語られ、現実にそれは起こったのです。
 人の歴史は罪悪と争いの連鎖です。人は限りなく罪深く、人の心は暗黒に満ちています。しかし、ろばに乗られたイエス様を信じる限り、そこに真実の平和が約束されるのです。自分が愚かで、愚鈍と言われながら、忍耐深く、忠実で、裏切らないで、実直でどこまでも背負わされた使命を忠実に果たす姿勢、生き方こそ、平和の源であるのです。キリストにある神様の愛こそは平和の源であり、その平和の道があるところに希望と再生があるのです。
 世界はいずれ消滅すると言われています。しかし、愛なる神様は、再度世界を回復する全能の方であるのです。その時、再び、イエス様は新しい永遠の平和な世界を再創造されるのです。
詩編には王の入場の姿を、「城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。」(詩24:7−10)と記してあります。イエス様の再臨の姿、輝かしい王として預言しています。栄光に輝く主、ホサナ、ホサナ、主の「助けは」実現すると告白されているのです。「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン」(ローマ15:33)



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