阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年3月29日
「キリストの受難と人の幸せ」
ルカによる福音書23章13-43節

 来週はイースターを迎えることになりますが、イエス様は一週間前の日曜日にエルサレムに入城され、人々はこの方こそイスラエルを解放し、神様が約束された王国を実現される方であると、棕櫚の枝をかざして迎えるのでした。イエス様は、月曜日から毎日、人々にこの世の中がどのように変わって行き、どのようにして世の終わりが来るのか、そのためにどのような生き方をしなければならないかを語り、教えられたのです。そして永遠の命は、神様の愛に生きる事であり、神様にあって共に生きる基である事を示されたのです。当時、イスラエルではモーセの律法を中心にして、生活の全てが細かく決められていて、その律法を守る事によって「永遠の命」に入れられ、神様の国に永遠に安らぐと信じられていました。そこで、世の仕組みである政治と、それにふさわしい生活を実行するための教育と、その根幹(こんかん)になる宗教が一つであったのです。今の言葉で言えば、正に機械的に律法を守る事によって「正しい」とされ、神の国、永遠の命に入れられると断じていたのです。当時は、今のように紙や筆記具のようなものは日常にはありませんでした。そこで覚える事が唯一の道具であったのです。律法学者や、特別に律法を守る事を修練するファリサイ派(分離された人々の意)の人々でない限り、律法とその適応の規定(ミシュナ、律法適応規則)は文章にされていないので、人々が詳細に、正確に覚える事は不可能であったのです。そこで庶民は、十分に律法を知らない、知らないから守れない、守れないから、穢(けが)れたもの、罪人であるという事になり。差別と軽蔑と侮辱が人々を精神的に、実際的に苦しめて、それが救いようのない悲しい現実であったのです。
イエス様は、律法による義、正しさだけにとらわれている、現実の矛盾と悲しみを深く見抜かれ、神様が愛である真実を忘れている律法学者やファリサイ人に、神様が愛である事を機会あるごとに示されてきたのです。律法は、生活と行動を規制するのですが、「愛」は人の内面的な動機です。心の中で価値あるものと思う時、引き付けられる力こそ愛であると言えます。それは自己中心的な思いなのですが、神様の愛、イエス様が語られる愛は、「価値の無い者を愛する愛」であり、「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)という御言葉に表されています。「敵」とは、「価値のない者」に他なりません。神様が「愛している」と言われるのは、愛している相手に全く何の利益も、価値も求めず、なお愛する事に他ならないのです。聖書はこの神の愛をアガペーと言います。
イエス様は、「神様は愛である」から、この地上でどのような罪を犯していても、それに気づき、悔い改めるなら、神様は罪赦されると教えられたのです。しかし、律法学者やファリサイ人たちは、イエスこそ神を冒涜する者であり、律法を破り、汚す者であると断罪するのでした。
最後が近づき、木曜日の夜、弟子たちと共に最後の晩餐をされるのです。イエス様が終日神殿で教えられた事で、ユダヤの施政者、律法学者たちは、神を穢す者、律法を無視する不逞な者として逮捕し、死刑にしようとするようになっていたのです。弟子たちは世情の緊迫した空気を察していました。
実は、弟子たちも「神の国」の到来は、「イスラエル王国」の実現であって、ローマの支配からの解放であり、完全な救い主、メシアの到来によって世界制覇ができると思っていたのです。しかし、現実には先行きがどうなるかわからない不安をもっていたのです。イエス様は、多くの奇跡を行い、人知では計り知れない全能の御業を現された方です。どのような窮状をも打破して神の国を実現されるに違いないと思う弟子がいたのです。それがユダです。ユダはイエス様を裏切った弟子として解釈されるのですが、イエス様を慕い、尊敬していたと言えます。彼は、イエス様がどのようになろうとも試練を打破して解決し、勝利されると予想したと言えます。確かに告発して銀30枚を受け取るのですが、真正面にイエス様が出られて大きな業をされ、難関を突破して勝利されると予想するのです。彼は決断します。
ゲッセマネの園で祈った後、イエス様の元へユダがユダヤの官憲を誘導して来て、親愛の情を表す接吻(せっぷん)(頬ずり)をした。本当に裏切っていたとしたらイエス様に頬ずりをする親愛を示すことができたであろうか。ユダには裏切りの意識がなかったと言えるのです。その証拠にはイエス様が十字架に架けられる結末を見て彼は後悔し、自死の道を選ぶのです。(使徒1:18)
イエス様は逮捕されると、大祭司カィアファの官邸の庭で審問を受けられるのです。そして様々な証言をもってしても罪状を決めつける事ができず、そこで「お前は神の子メシアなのか」と問うと、イエスは、「人の子が全能の神の右に座り…雲に乗って来るのを見る」(マタイ26:64)と答えます。一斉に「彼は神を冒涜した。死罪である」と宣言するのでした。その時ペテロは、その庭にいたのですが、イエス様を知らない、関係ないと言い張るのです。明らかにペテロはイエス様を裏切ったのです。かつては、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と言っています。呪いのことばさえ口にして「わたしは知らない」と言うのです。
ユダヤにおけるローマ支配では、死刑などの重刑は、日常の律法ではなく、ローマ総督の裁可の下で結審されるのでした。イエス様はピラトの元へ連れ行かれたのです。そして「民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、自分がメシア、王だと言っている」と告発されるのです。ピラトは、イエス様がユダヤの王かどうかで告発されているのがよくわからないし、そんな事はどうでもよい事であったと言えます。イエス様の出身地の所領では、ヘロデが王として委任されていたので、そちらへ廻してやろうと、エルサレムに滞在していたヘロデ邸にやるのです。ヘロデにもイエス様を大祭司や律法学者は激しく訴えるのですが、ヘロデは奇跡のうわさを聞いていたので興味をもって尋問するのです。イエス様は相手にされない、そこで相手にされないので、侮辱してピラトに送り返すのです。
送り返されてピラトの法廷に立たされたイエス様をピラトは何ら罪を認めなかったのです。ヘロデも同じでしたのでピラトが赦してやろうと言うと、群衆は「イエスを十字架に、バラバを釈放しろ」と叫ぶのです。その日は過ぎ越しの祭りで、恒例により重罪の者を恩赦にする習慣があったのです。しかし、群衆の多くは体制に迎合して、イエス様を十字架につけろと叫ぶのでした。バラバは、殺人と暴動の罪を犯していました。しかしイスラエルを弾圧するローマへの反動であり、おそらく熱心党のリーダーであったので、民衆の支持があったと言えます。政情不安を一番気にする総督にとって、イエス様一人の犠牲は政情不安に代えられないのです。ピラトはイエス様を十字架に架ける決定を下すのです。
罪なき方が十字架を背負い、悲しみの道ドロローサを歩まれました。この人に罪がないと3度も叫んだピラトの声はかき消され、群衆の罪なき者を罪とする声に押されて、ゴルゴダ(されこうべの意味、処刑場)で、二人の罪人と共に主イエスは朝の9時から午後の3時まで御苦しみを受けられたのです。
主イエスはなぜ十字架で死ななければならなかったのか。神様は、神様の御心を踏み外し、真実の救いの愛を見失っている人々に、間違いを示し、悔い改めさせるため、神の御子を死に追いやる事を通して、神様に立ち返る道を供えられたのです。主の御苦しみにより、罪の愚かさと恐ろしさを示し、全人類の罪の贖いとしてイエスは十字架にかかられたのです。主は十字架上で言われた、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」。(ルカ23:34)罵る人、嘲(あざけ)る人、罪を叫ぶ人々は、自分のしている事が分からないでいる。彼らを「赦してくさい」と祈られるのです。真実の愛、神様の愛は、どんな犠牲を払っても、愛し続けて下さる愛であるのです。主イエス様こそ生ける神、真実の神、愛なる神です。栄光主にあれ、御救いは主にあり、永遠の命の道がそこにあるのです。

「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
(ヨハネ14:6)

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」
(ガラテヤ2:19−21)



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