阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年4月12日
「共に歩まれるキリスト」
ルカによる福音書24章13-35節

  人にイエス様の事をお話しすると、「キリスト教は外国の宗教ですよね」と言われる事がよくあります。日頃、家の宗教にはあまり関心がなくても、「宗教は何ですか」と聞くと、多くの人は「仏教です」と答えます。確かに世界の宗教事情の区分けからすると、日本は「仏教国」と言われています。しかし、「仏教」も本来外国の宗教なのです。仏教は、飛鳥時代、538年に中国より伝来した事に始まり、日本本来の神道との葛藤の末、神仏習合を経て根ざしていきます。本来の神道は自然宗教であって、自然の恵みに神の宿るという観点から、森羅万象、自然を神としてきているのです。仏教は仏陀の教えであって、悟りであり、自然界の変化を悟って、変化にとらわれない「解脱」を救いとする事にあります。そのような宗教思想、文化の言葉として「諦めが肝心」が素朴で適切な言い表し方として使われています。日本古来の宗教は、自然宗教の神道であって、森羅万象を神とあがめ、「八百万の神」と言い、自然への畏敬が、感謝と従順な思いとなっています。その後、封建的な時代の変化の中で儒教が政治や人間関係に組み入れられてきました。そして、人権を見失った軍国主義の悲劇を通して、人と命を大切にする、人権を土台にする文化が芽生えてきたのです。その基本にあるのは、西洋を通して生育されてきた聖書の教えに基づく、「人の命を大切にする」平和の教えであったと言えます。もちろん権力と支配の醜い歴史を通して精錬されてきたものです。
 いま日本では通俗的に、誕生の祝いはお宮で、結婚式はキリスト教で、葬式は仏教でというように、宗教を意識せず違和感なく人生の通過儀礼を過ごします。そして「あなたの宗教は?」の問いがあれば仏教ですと答えます。また、ほとんどの人はクリスマスには家族でケーキを食べて祝います。バレンタィンデイ、ハローウィンを楽しく過ごし、カーニバルまがいのパレードで市民祭りをします。仏教国と言いながらも釈迦の誕生の花祭りは目立ちません。宗教が生活のデコレーションのようになっているのです。
 クリスマスには町の商店や百貨店で飾りつけをし、いたるところ病院から幼稚園、学校までツリーを飾り、サンタクロースで祝い、クリスマスソングが町を浮き立て華やかにします。そして、今日では「葬式はいらない」(島田祐巳著幻燈社刊)がベストセラーになり、伝統的な葬儀は取りやめ、家族葬や直葬とする人が多くなっているのです。
 クリスマスは多くの人が楽しみ、キリスト教会でも祝賀会などには家族で参加するのですが、イースター、復活祭にはそれほど関心がないようです。イースターこそキリスト教信仰の中心的であり、土台となる祝いの時であるのです。それはイエス様が死から甦るという出来事が起こった日を記念し、祝う日であるからです。誰しも人生は死で終わります。死は儚く、孤独であり、寂しく、消え行く悲しみは果てしなく空しいと言えます。消滅と滅びを意味し、死ぬ人にも生きる人にも悲しいものです。本来、人は神様に似せて創造され、神様の愛に生きるものとされているのに、神様を忘れ、神様から離れ、自己の欲望を中心に生きる事から、所有の欲望、支配の欲望によって争い、殺し合い、いがみ合う生活を営んできました。それは部族の争い、人種の争い、国の争い、そして日々の営みの中の争いの連続、悲劇の現実であると言えます。それが悲惨な人間の罪悪の構図であるのです。人は迷い、不安の中で様々な救いの道、宗教を求めてきました。しかし、所詮、人の迷いの中に思いつく救いの道はないのです。真実の神様、存在と命の根源である創造主なる神様は、「愛」をもってその命を回復して下さったのです。神様を忘れ、拒んで、争いと破壊の悲劇に生きる者に、命の意義と希望の回復を、イエス様の復活を通して示されたのです。先週は復活祭でした。しかし、その時まだ弟子たちも復活されたイエス様の事実を信じる事ができなかったのです。しかし、その後、様々な事を通してイエス様は弟子達と会って真実の姿を示されるのでした。
 エルサレムの出来事も終わり、二人の旅人がエルサレムの山裾11キロにあるエマオという村に向かって、エルサレムでイエス様に起こった出来事を回想して話しながら歩いていました。そこへイエス様が近づいてきて、話している事を尋ねられるのです。しかし、両人は目がさえぎられてイエス様だとは分からないのです。イエス様が、やりとりしている話は何の事かと尋ねられると、二人は暗い顔をして、クレオパという人は、「エルサレムに滞在していて、この数日に起こった事を知らないのですか」といぶかるのです。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(ルカ24:19-24)と言うのでした。二人の旅人は、イエスの墓に行った婦人たちの報告を受けながら、「仲間が行ってみたけれど生きておられるイエスは見当たらないのです。どうも信じられないのです。」と、「暗い顔をして」(ルカ24:17)答えたのです。復活されたイエスの事を、話としては聞いているが、その事実が分からないでいるのです。この「暗い顔」という表現は、スクスローポス(σκυθρωπος)「沈んだ」「陰気」「悲しそうな」顔という意味で、マタイ福音書6章16節では「沈んだ顔つき」、口語では「陰気な顔つき」と表現しています。どうなっているのかわからないで途方に暮れた。一方では困惑して失望し、気落ちしている事を意味していると言えます。
イエス様は嘆息をついて、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い者」と言われています。そして「聖書の預言者たちが、メシヤが苦しみを受けて栄光を受けられるはずではないか」と言って、モーセとすべての預言者たちが語り伝えている聖書を説き明かされたのです。二人の旅人は心が燃えるのでした。そこでイエス様に、そろそろ日も暮れるので、今日は一緒に宿に泊まり、話を聞かせて下さいと言うのです。イエス様は強いて引き止める二人に従って共に食卓に着き、賛美をし、祈ってパンを裂いて二人にお渡しになると、二人の旅人の目が開けてイエス様だと分かるのです。するとイエス様の姿が見えなくなるのでした。
二人は、イエス様が聖書を解き明かして下さった時、「心が燃えたではないか」と追想するのです。そこに少しもいられず、夜も深まるのにすぐさまエルサレムに向かって出発し、この喜びとイエス様が「事実、復活された真実」をペテロや弟子たちに報告するのでした。主イエスは、事実、真実に甦られたという確信を持ったのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と、イエス様が約束された「永遠の命」を確信するのです。神様は活きておられることを確信するのです。イエス様はやがて40日目に昇天され、目には見えないが信じる者と共にいてくださるのです。
神様は「愛」です。どのような犠牲を払っても例外なく守り、救い、解決の道の希望を備えて下さるのです。主イエスは最後に言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイ28:20)
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)
主イエスは活ける神として信じる人と共にいて執り成し助けられるのです。
「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(へブライ7:25)
ハレルヤ、感謝します。主を信じる人に平和と平安、賛美がありますように。
 


 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ