阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年5月3日
「常に共に歩まれるキリスト」
マルコによる福音書16章14−20節

  人の生涯は例外なく死で終わります。死を迎えて悲しまない人はいないと言えます。大哲学者ハイデッガーは、「人は死に至る存在である」という有名な言葉を残しました。そこには人の空しさと儚さがあります。そして存在するものには変化があり、終わりがあるのです。存在の終わりは時間の終わりです。古代ギリシャのヘラクイトスは、「万物は流転する」と言ったそうです。変わる事がないのは「変わる事だけである」という事になります。
 人は、ある人は豊かで、名声があり、ある人は権勢を誇り、ある人は貧しく、また、孤独で不幸に見える事もあります。しかし、どんな人も例外なく死で終わるのです。
イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と不思議な言葉を語られました。その時、誰一人としてその言葉を信じる人はいなかったと言えます。弟子たちの中には「教え」として受け入れていた人がいたかもしれません。しかし実際に、「死んでも、復活する」という事を信じられなかったのです。
イエス様の時代、イスラエルでは民族の始祖アブラハムが神に選らばれた民として啓示を受け、やがて人間の生きる道である神様の教え、律法を、モーセを通して与えられ、約束の国をダビデの時代に確立するようになるのですが、その子ソロモンの時代には南北王朝に分裂し、BC8世紀北朝であるイスラエル王朝がバビロンによって滅ぼされ、離散します。そしてBC6世紀ごろに、南のユダ王朝もバビロンに蹂躙され、捕囚されます。ユダの民は神の民であるのに、捕囚の苦しみに苛まされるのです。その苦難の中にあってもなお、神に選ばれた民として、「救い主メシア」がやがて国を再興されるという預言者らの言葉に希望を持つのです。その約束はモーセの律法にあるのであって、モーセの律法を詳細に生活に適応して規則としたのです。それを守る事によって永遠の命、神の国に入れられると信じ、その後、アッシリヤの台頭によってバビロンから解放されるのですが、またしてもギリシャのアレクサンダーの支配下になり、アレクサンダーの死後、4人の将軍によって帝国が分離されて、イスラエル(ユダヤ)はシリヤのセレウコスに蹂躙されるようになり、神殿に豚の頭を捧げさせられるに及んで、マカベヤ一族が蜂起してイスラエル(ユダヤ)は独立を果たします。しかし、やがてローマ帝国の支配を受けるようになるのです。その圧政と屈辱、またしても神殿侮辱の持続的な試練の中で、いつの間にか、メシア、救い主がイスラエル(ユダヤ)の王として、ローマ帝国の圧政から解放して、イスラエルを世界の支配者とする神の国の実現を信じる社会通念になるのです。
長い間に、モーセ律法の細則を厳密に守る事こそ、死後の安心立命である永遠の命の約束であるという事が社会規範になり、律法学者、司祭、そして特別に学び、修養するパリサイ・グループに所属しない限り、厳密に律法細規を守る事ができないために、庶民に対して差別、侮蔑、軽蔑がおこり、それが精神的屈辱となり庶民を悩ませていたのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16)という御言葉は、当時の庶民にとって救いの約束となったのです。神様は誰一人滅びる事のないために御子イエスをお遣わしになったのです。どのような人も例外なく現実には罪深い者である事をイエス様は指摘されるのです。律法を守っていると言いながら、心で人を憎むなら、その憎しみはやがて人を殺す動機となるというのです。誰でも心から罪を自覚し、認めて、悔い改める時、神様は愛なる方なので、その罪を許して下さるというのです。
多くの群衆は、イエス様に群がりました。人々はイエス様こそ、来るべきメシア、救い主であると叫び、「王」としようとするのです。しかし、律法の体制を正当化し、政治的に庶民の指導権を持っている人々、律法学者や祭司、パリサイ派の人々は、社会習俗や規範になってしまっている律法細規の厳守に拘(こだわ)り、イエス様を、神を冒涜する者として死刑に断罪するのです。ローマ政府は、イスラエルを支配するにあたって、イスラエルの宗教や習俗習慣を認めていたのですが、死刑に関するような事はローマ総督の権限としていたのです。総督ピラトは、奥方がイエス様に心酔している事もあって、ユダヤ習俗の争いだから赦そうとするのですが、律法学者や司祭は民衆を扇動して暴動のようになり、治安維持のためにピラトはイエス様の死刑を宣告するのです。3回もピラトは「イエスには罪は見当たらない」と言うのですが、政情不安を恐れてとうとう死刑を宣告するのです。
 イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と、繰り返し言われたのです。イエス様は十字架で処刑されます。しかし、言われていた通り3日目にお甦りになるという事が起こるのです。葬られた墓にイエス様を慕っていた婦人たちが香油をもっていったところ、甦られたイエス様の姿はなかったのです。四福音書にはそれぞれ違ったイエス様の復活の出会いの情景が記録されています。復活されて何回も、弟子たちに出会い、聖書の告げる救いの言葉を解き明かされるのです。当初は誰一人として「人が復活」する事を信じていないのです。イエス様が弟子たちに語られた「復活」は、単なる「話」として聞いていたと言えます。
しかし、現実に主イエスが甦られた事を明確に自覚できるようになるのです。マルコによる福音書16章14節では、イエス様は弟子たちが食事をしている時現れて、その頑なな心を咎められるのです。イエス様を見た人々、婦人たちの言う事を信じないために、復活の主が直接出会われているのです。
第一に、イエス様のメッセージは、「永遠の命に生きる」、死を克服する、死の悲しみが、永遠の命によって解決されるという事です。存在には終わりがある。それはと時の終わりであるのです。時には制限があります。使徒パウロは、「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(コリントT15:42−44)死は体の消滅です。しかし、人は、永遠に生きるのです。イエス様を信じないと、人生は消滅で終わるのです。どんな人も孤独と虚無の空しさに永遠にさまようのです。そこには悲しみ、空しさ、儚さ、無限の苦悩が残るのです。神のない永遠こそ地獄と呼ぶのです。
使徒パウロの言葉に心を留めようではありませんか。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたち、…キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず、最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(テサロニケT4:15−18)キリストの再臨の時、新しい新天新地が再創造されるのです。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。…わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(黙示録21:1−4)
第二に、聖書の永遠の命は、単なる空想ではなく、弟子たちは確信をもって世界に福音を伝えたのです。「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:20)主は、弟子たちが宣教する所で共に働かれるのです。マタイによる福音書では、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19、20)ここに約束されているのは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という事です。どんな時でも主イエス様は共にいて下さるのです。そこに慰めがあり可能性が、希望があるのです。
第三に、世界に出て行って福音を伝える事は、クリスチャンの使命です。父と子と聖霊の名において洗礼を授ける事こそ父なる神の愛を信じ、子なる神の恵みを伝え、聖霊なる神の命に生かされる事になるのです。クリスチャンはキリストを通して示された神の愛、赦しと和解、平和と平安を実現するために召されている事を自覚しましょう。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)




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