阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年5月10日
「神の祝福に満された家族」
申命記6章4−9節

  教会では5月の第2日曜日を母の日として、日頃の母への感謝を表す慣習があります。母の日は、アンナ・ジャービスという女性が日曜学校の教師をしていた、アメリカのウエストバージニア州のメソジスト教会で、母の記念会を持った時に始まると言われている。1908年5月10日、日曜学校の全生徒に赤いカーネーションを手渡した。これが「母の日」を祝った最初と言われている。1914年に国の祝日となり、アメリカで始まった母の日を祝う習慣は、今では世界に広まり、日本や、アメリカでは5月の第二日曜日に、世界ではそれぞれの国が日を定めているようです。共通している事は、世界のどんな所でも人のいる所には家庭があり、母がいるという事です。
 すべての人は母から生まれるのです。出産する母の苦しみによって生まれてくる子は泣く事によって生涯が始まり、生きる証しを伝えます。母の苦しみを泣く声で始まる人生は、喜びで結ばれます。母の愛の苦しみの犠牲で、人は人となり、人が人として成人になるのです。生み、育てる大きな愛がそこには注がれるのです。赤ちゃんの時は乳を与え、歩き始めると喜びながら、ひと時も注意を怠らないのです。自然な営みとは言いながら、子育ての気苦労と気遣いは如何なるものによっても表す事ができない母の愛によるのです。
 先週は、ある人の結婚式がありました。いろいろな事情で結婚式ができなかったのです。花婿のお母さんは2年も前から結婚式をしてあげたいと相談しておられました。忘れた頃にいよいよできる事になりました。花嫁は喜び、もちろん花婿も喜び、花嫁と腕を組んで式場に入場するお父さんの喜びの笑顔は忘れる事が出来ません。長い間願ってきた花婿のお母さんの笑顔が忘れられません。花婿のお母さんは、育てた上げた息子の幸せな姿に、母親としての言葉に表せない幸せと愛の報いを見る事ができるのです。
 家族の幸せは、どんな時でも家族が労り助け合うことです。家族の絆は愛です。昔から「金の切れ目が縁の切れ目」という諺がありますが、家族にとって大切な絆こそ「愛」です。聖書に「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ3:14)とあります。血の繋がりや、法律的な繋がりがあっても、愛を失った家族ほど悲惨なものはないのです。現代は少子化家族の時代であり、1組の夫婦の家族が、高齢になった4人の両親を世話する時代です。医学の進歩で平均寿命が83歳という時代です。95歳の人を75歳の娘が介護する事には、様々な障害があり、時には不可能です。父親に経済力がなく、ギャンブルや酒におぼれて子供に負担をかけ続けることは非情です。今の社会は、社会全体で助け合う時代です。社会には家族を助け、協力する道が基本的にできています。しかし、どのようになっても家族の絆、愛が最後の心の繋がりになります。人の愛は本来打算的なものです。しかし、聖書は一貫して「神は愛です」(ヨハネT4:8、16)と示しています。神様の愛は御子イエス・キリストによって現された愛です。その事を示しているのが次の御言葉です。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
(ヨハネT4:7−12)
 神様の愛に生きる事は、神様の御言葉、教えに生きる事であるのです。真実の家族の幸せの土台こそ、創造主にして愛なる神様の御心に生きる事なのです。
その第一は、聖書には「十戒」の教えがあります。前半の4つは真実に創造主なる神を信じる人の、神との関係についての戒めです。そして人間が互いに生きる為の6つの戒めが示されています。人の第一の大切な戒めこそ、家族の絆です。「あなたの父母を敬え」(出エジプト20:12)この戒めについて使徒パウロは、エフェソ6章1節以下で、「約束を伴う最初の掟です」と記し、「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。」と冒頭で言っています。儒教のように、関係における上下の権威で服従する「孝行」ではなく、「主に結ばれている者として」、神様に従い、神様の御心に生きる父母に従うのです。家族の中心、土台は神様なのです。神様を信じ、愛している両親にこそ従う事ができるのです。では、神を信じない両親であって、神様の御旨を否定する両親である時には無視するのでしょうか。聖書には、「父母を敬え」とあるのです。どのような父母であっても敬う心を忘れてはならないのです。
 第二に、だからこそ神様によって結ばれた家族は、日々神様の御教えを家族、家庭の柱、土台として、その教えを繰り返し心に留めるように教えています。今日のように教会がない時代には、家族で礼拝を持つように聖書は教えています。食事こそ礼拝の場であるのです。父親は申命記6章4節にあるシェマー(聞け)から始まる「“聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい”。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申6:4−9)という御言葉を語りました。特に、父親は一日の勤労を終えて家族で食卓を囲む食前に、この言葉を繰り返し、エジプトの奴隷生活からの解放と、神の約束の地へ導かれた過ぎし日を回想して、今日の食事を感謝し、家族の絆を神様にあって確かめ感謝するのです。家こそ教会であるのです。今日では神の家族が共に集い、教会で礼拝するのです。シェマー「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」を
「子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申6:7)と教えています。ここでのシャナーン「繰り返し教え」というのは、「石に鑿(のみ)をもって刻み込む」、「繰り返し叩き込む」という意味です。頑なな心に神様の愛の鑿(のみ)をもって神様の御言葉を刻み込む事を教えています。今日では、教育はエデュケーションと言います。それは「引き出す」エデュースから来た言葉で、人間の能力を引き出すという意味です。しかし、聖書の「教え込む」は、神様の御言葉をもって刻み込み、形作ることを教えています。家庭が神様の言葉で形作られるのです。その御言葉を自分の手に結び、額に付け、家の戸口の柱にも、門にも置き、出ると入る時に暗唱するのです。これがイスラエルの古代社会で伝承された家の祝福の基礎であるのです。今日ではこの教えを基礎に、幸せな家庭の実践信条とするのです。改めて使徒パウロの言葉に心を留めたいと思います。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。」(エフェソ6:2、3)
 第三に、だからこそ箴言の御言葉を心に留めようではありませんか。「わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。」(箴言6:20−23)主にある家族は常に「神様の言葉」に導かれている事を忘れてはならないのです。そこから祝福の泉が湧き上がるのです
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」
(詩119:105)
いかなる困難も、試練も闇も、「御言葉の光」がある所に希望の道が備えられている事を確信できるのです。感謝。お母さんの愛と思いやりに感謝しましょう。



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