阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年5月17「日
「キリストの約束された力」
使徒言行1章1-14節

  昨日は三浦綾子読書会がありました。テーマ図書は「銃口」で、単行本で約700ページもの大作です。北森竜太という青年教師の、戦前、戦後の思想弾圧を巡る、数奇で過酷な戦中の生涯を描いた作品です。竜太は、現実の戦時思想の流れに忠実に生きながら、共産思想とみられていた集会にたまたま出席し、出席者として署名した事から、弾圧、拘束、教職の剥奪、そして徴用の道をたどります。竜太の家は、旭川で質屋という貧困を商う商売をしていたのですが、両親の温かい人間性と思いやりがドラマの背景にあります。かつて両親が助けた人は、竜太が満州で関東軍の敗残兵として逃走する折の、助け手となる重要な人物として描かれています。三浦文学のテーマである「原罪」の中に、なお、「人は愛に生きる」、人は「愛の神に似せて造られている」事を描き、人は愛に生きるという苦悩の中でそれが証しされる事を示しているのです。天皇の赤子(せきし)思想で、治安維持法に統制される人間性無視の支配体制でドラマは展開します。竜太は教師として国家体制に忠実に尽くしながら、理不尽にも不遇と試練の道に進む事になるのですが、国家体制思想から解放されないのです。しかし、やがて婚約者芳子の信仰に目覚めるのです。
 人は世の中の流れに拘束されるものです。今日の聖書の箇所は、使徒言行録第1章です。イエス様がお甦りになって弟子たちに幾度となくお会いになり、弟子達もようやくイエス様が現実にお甦りなったことを実感するようになってきたのです。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒1:3)いよいよイエス様が昇天される40日目が近づき、イエス様は弟子たちが十分「神の国」について理解していないのを察して、甦られた日の夕方、弟子たちの食事の時、お会いになって話された事を繰り返し語られたのです。神の国とは永遠の命に生きる事であり、神様と共に生きる事であるのです。(ヨハネ12:50)神様と共に生きる事こそ、神様の愛に生きる事なのです。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」(Tヨハネ4:12、13)神様の愛に生きる事こそ、神様に生かされる事であり、それは「聖霊によって」神様がとどまってくださるという自覚が生まれると約束されています。
「聖霊の洗礼を受ける」(1:5)ヨハネは水で洗礼を授けた。それは形であるけれども、聖霊のバプテスマは心、魂、全人格に聖霊が満ち溢れるのです。そしてイエス様は「聖霊を受ける時」「力を受ける」(1:8)と言われるのです。
 この御言葉の前に、弟子たちは、「使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。」とあります。(1:6)弟子たちは、依然として“イスラエル国の再建”すなわち過酷なローマ帝国の支配から解放して下さる神様からの解放者、メシア、救い主、王が来られて、栄光のイスラエルを回復されるのはいつですかと問うているのです。イスラエルは、アブラハムが神の民の父として選ばれ、神の御国を実現する民とされ、モーセを通して神の民の約束として律法が与えられるのです。その律法は、人の罪を教え、人間の弱さ、罪深さを教え、神様の赦しを待ち望むきっかけとなるようにと与えられたものでした。使徒パウロは、「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤ3:24)と記しています。ユダヤの律法を守る伝承は、律法の規制を守る事で神の国が実現でき、永遠の命が与えられるという考えに固執するようになっていました。そしてやがて約束の神の国、イスラエルの国家が、メシア、救い主によって世界を制覇するという思いになっていたのです。しかし、「イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』」。(1:7、8)主イエスは、神の国の実現は“神様だけがご存じである”ただ、あなた方が「聖霊を受ける」時に、あなた方は全世界に出て行って「わたしの証人」になると言われているのです。
 「聖霊を受ける」事こそが転換のカギであるのです。来週はペンテコステの日です。イエス様が昇天されて10日、復活されて50日目に、弟子たちがエルサレムで祈っていると、約束の聖霊が降る体験をしたのです。(使徒2:1−4)そこでイエス様の言われている「地の果てまでわたしの証人となる」(1:8)という出来事が起こるのです。
ここで第一に、教えられる事は、「イエス様の証人の集団が形成された」という事です。イエス様の真意が理解できた事です。救いようのない裁きで人を裁き、許される事がないと決め込んでいる、律法学者やファリサイ派の矛盾と過ちを指摘し、神様は愛であり、悔い改め、赦しを求める者の気持ちを良しとされ、いかなる罪をも赦して下さる神様の愛こそが、人を人として生かすものであり、この世が赦し合い、愛に生きる事こそ、神の国の実現であるという事をイエス様は示されたのです。その為に十字架の犠牲になられたのです。弟子達は、人を縛り付ける律法の社会通念によってイエス様の十字架と復活の約束を理解できなかったのでした。しかし、「聖霊が降る時」彼らは完全にイエス様の御心を自覚的に理解できたのです。この理解により与えられた力、その命に満たされた時、彼らは真実のイエス様の弟子として、イエス様の示された神様の愛を知り、その愛に生かされたのです。
第二に、イエス様が示された神様の愛に生かされる仲間こそが、神様の国を生き、神の国の証しをするイエス様の証人となったのです。そこに活けるイエス様が臨在される所、キリストの教会、キリストの体が誕生するのです。
第三に、聖霊によって満たされた弟子達は、「力を受ける」(1:8)と約束されています。その「力」とは、イエス様の証人となる力です。イエス様が生きておられるという証しをする人に変えられるという事です。「聖霊」は神そのお方であり、神の命、神様の愛を意味します。聖霊を受けるという事は、神様の命、愛に満たされる事であり、神様の愛に生きる、御子イエス・キリストによって現された愛に生きる事です。正に「聖霊の力」とは、神の愛の力、命です。その愛が、人々への愛となって「証人」としての働き、即ち、イエス様が人々を虚しさと罪の悲惨から救われ、犠牲となられた恵みを、救いの希望を、神の心を取り戻す回復を伝える事に感動し、伝える激動に押し出される情愛となるのです。その宣教の愛は、いかなる試練、困難、犠牲を厭わないで、それを喜びとする人にさえ変えられる「力」であるのです。
 証人となる。神様の愛に生きる証人、聖霊に満たされたクリスチャンこそ証人です。聖霊に満たされたクリスチャンでなければなりません。神様の愛に生きる事こそ平和の鍵であるのです。
 「証人」、聖霊に満たされた人々による初代の教会では、試練と困難が続きました。過酷な迫害、身をそがれる苦悩、命を落とす事も日常となる日々もありました。しかし、クリスチャンは永遠の命、再臨のキリストに望みを置いて殉教したのです。その尊い愛と犠牲により、イエス様の十字架の道をたどり続けて「福音」が東洋の果て、極東の地に、私達に伝えられてきたのです。「証人」は、聖書の原語でマルタスと言います。その言葉は「殉教」という意味の英語のマーターの語源になっているのです。クリスチャン、即ち、神様の殉教者というのです。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19,20)と使徒パウロは言っています。キリストの愛に生きる事は、キリストの言葉に生きる事です。聖書ははっきり明言しています。「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」(Tヨハネ2:5)聖霊の力は、イエス様の贖いの真理と、神様の愛を体験的に理解して与えられる「力」であるのです。人の世に続く権力と富の争奪、人間の自堕落性、果てしない愛の喪失は生活を破壊し、人生を混乱します。神様の愛、赦しと和解の福音こそ真実の平和と希望であるのです。世界と宇宙はやがて終末を迎えると言われます。そして、新しい新天新地が創造される時、イエス様を信じている人々は再創造の復活をむかえるのです。主イエスが昇天される時、「あなた方を離れて天に行かれるのを見たのと同じ有様で。またおいでになる。」(使徒1:11)と言われています。神様の愛のあるところに、赦しと和解がある。和解のあるところに一致がある。一致のあるところに平和がある。神の愛こそ平和の源であるのです。  「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン」
(ローマ15:33)



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