阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年5月24日
「確かな希望と生きる喜び」
使徒言行録2章43−47節

  今日はペンテコステの日、五旬節です。今日のキリスト教会では、クリスマス、イースターに並んでペンテコステは3つの記念すべき日です。クリスマスはキリストのご降誕を祝う日です。イースターはキリストの復活を記念する日です。ペンテコステの日は一般にはあまり知られていないのですが、主イエスが約束された聖霊が、弟子たちに与えられた日です。弟子達はイエス様がエルサレムで祈り待ち望むようにと言われたのに従って祈っていると、突然、激しい風が吹いてくような音が聞こえ、弟子たちがいる家中に響き渡ったのです。それは主の復活後50日目の出来事でした。祈っている弟子達の上に炎のような舌が現れ、一人一人の上に留まり、一同は聖霊に満たされて、他の国の言葉で祈りだすのでした。
ペンテコステ(五旬節)は、過ぎ越しの祭りの後、50日目の春の収穫感謝の日としてユダヤでは祝うのでした。また、イスラエルが出エジプトして、砂漠を彷徨い、シナイでモーセが神の律法を与えられた事を記念する喜びの日とする祭日で、人々は一晩中律法を抱えて踊り明かす伝承があるのです。
どこでも祭りというのは、大切な出来事を忘れずに記念し、その出来事の意味を言い伝える伝承なのです。どこの国にも祭りがあります。出来事を言い伝える形として行われるのですが、いつの間にか、人々はその主旨を忘れて、華やかな様式だけを残して伝えるようになるのです。京都の祇園祭は33基の山鉾が町を巡行する壮大な祭りで、今では一大観光となっています。しかし、ほとんどの人はその祭りがなぜ行われるのかを知らないのです。それは、平安時代、京都が都になって人々が集まり、元々、湿地帯であったので疫病が蔓延し、疫病払いの鉾を巡回させた事によると言われているのです。今日ではそのいわれも忘れられて、観光の出しもののようになっています。
イスラエルはアブラハムを神に選ばれた信仰の父とし、その神に選ばれた民族としての確かな証しこそ、主エジプトから50日目にシナイでモーセが律法を与えられた時とするのです。神に選ばれた民の証しとして律法が祝福の基となり、神に選ばれた民族の証しであったのです。神の民は苦難と試練の中にありながら、約束の地、カナンへ導かれ、やがてカナンに到達しながら400年の間なお試練の中で待ち望み、やがてダビデが現れて国家としての統一を果たし、シオンに仮の天幕の礼拝所を建てて律法を安置し、イスラエル国家を成立するのです。神に選ばれた民族が国家として成立します。そして、その子ソロモンの時に信仰の始祖アブラハムによって信仰の証しが残されたモリヤの山に、神殿を建設して繁栄を極めます。しかし、過酷な重税と賦役のためにソロモンの死後、国家は分裂し、周辺の超大国のエジプトや、バビロンの侵攻に翻弄されて南王朝が滅び、やがて南ユダ王国も崩壊するのです。しかし、イスラエルは神の民として、試練の中にあってもやがて世界を制覇する王国となるため、救い主(メシア)なる王が来られて、国家を再興されるという伝承が伝わって行くのでした。その根拠が、モーセの律法、即ち、神様の律法であるとしたのです。その律法を守る事こそ、神様の約束の神の国を実現する事であると信じるようになったのでした。そこで、その律法を詳細に生活に適応する事で、その神の国を実現する条件として、いつの間にか世間は律法で縛られるようになり、律法が民の善悪を区分ける道具になってしまっていたのです。神様は様々な時代に預言者を通して神様の御心、赦しと愛を示されました。
「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。わたしに思い出させるならば、共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。あなたの始祖は罪を犯し、あなたを導く者らもわたしに背いた。それゆえ、わたしは聖所の司(つかさ)らを汚し、ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。そして今、わたしの僕ヤコブよ、わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。」(イザヤ43:25−44:3)このように主は、幾度となくその真実の御心として罪の許しと回復を示されているのです。しかし、イスラエルの人々は、律法を守る事によって救い主は出現し、イスラエルはメシアによって世界制覇を実現するという、間違った伝承に陥ってしまうのでした。預言者によって語られる神様の御国の回復とはかけ離れた教えに縛られてしまったのです。間違った伝承に陥ってしまって、その固定観念の中にいたのです。
聖霊がイエス様の弟子達に降った時、弟子を代表するペトロは、はっきりとイエス様が何故、十字架にかかり死なれたのか、そして復活されたのかを示されたのでした。彼は宣言します。預言者ヨエルの言葉をもって叫ぶのです。「『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。…主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」(使徒2:17、21)そして彼は「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
(:36)と語りました。
 長い間拘束されてきた社会通念、拘束してきた律法理解から、神様は愛であり、恵みの主であり、どのような重い罪も、深い罪も許されると教えられたのです。主は最後に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使1:8)と言われました。聖霊を受ける時、地の果ての人々にまで、「わたしの証人」となるのです。イスラエルを通して神様の愛と恵みを示しているのです。弟子達は、過去の誤ったイスラエルの社会通念から根本的に解放されたのです。ペトロの説教を聞いた人は悔い改めて、その日3000人がバプテスマを受けました。
イエス様は十字架の上で、罪を自覚しないで、なお神様に敵対する人々を赦し続けられるのです。イエス様の罪の許しと愛が、人々を一つにしたのです。そこにキリストを信じ、キリストの愛に生きる交わり、集団が生まれたのです。それこそキリストの教会です。聖霊に満たされる経験、神の愛を自覚する経験、果てしなく絶望的で穢れた罪深い者をも赦し、清め,義として神の子として受け入れて下さる恵みが、そこに開かれたのです。生けるキリスト、十字架のキリスト、復活のキリスト永遠の命が存在を満たし、支え、導く経験、それが聖霊を受ける経験であるのです。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19,20)イエス様を信じる人々は、聖霊を受けた後、「みな一つに」なったのです。そして、持ち物を分かち合い、心を一つにして食事をし、まごころをこめて祈り、賛美し、礼拝するのでした。多くの人々はこれを見て、好意を持ち、こうして救われる人々を毎日加えられたのです。これが初めてエルサレムで聖霊が注がれ、誕生した教会の姿であったのです。
 そして、今もイエス様を信じ、聖霊を求める人々にその恵みは注がれます。使徒パウロは、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」(使19:2)と聞きました。確かに今日では「聖霊によらなければ、だれもイエスを主であるとは言えないのです。」(Tコリント12:3)とあり、主を告白する事は静的で、観念的な領域に限られていると理解できるのです。しかし、正に、使徒言行録の記録での聖霊を受ける事は、動的で、感動的、神様の命が躍動する力、主イエスが今ここに生きておられるという体験です。生ける主、共におられる生ける主イエスと共存する感動であると言えます。今、教会に求められているのは、生ける主イエスが語り、導き、支えて下さる、生きた信仰の恵みに生きる事です。聖霊に満たされるクリスチャン、聖霊に満たされた教会、そこに生けるイエス様の愛が満ち溢れるのです。キリストにあって一つ、そこにリバイバルのカギがあるのです。共に祈ろうではありませんか。ハレルヤ



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