阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年5月31日
「主の証人となる」
使徒言行録3章11−26節

 ペンテコステの日に聖霊が降り、満たされた使徒たちすぐに聖霊降臨の意味を人々に伝え始めました。特にペトロは驚き怪しむ多くの人に「悔い改めなさい」と説教しました。その結果、信じる者がその日3千人に及び、主を信じる人々の群れ、教会(エクレシア)が誕生しました。
その後、ペトロとヨハネが、神殿の「美しい門」のそばで物乞いをしていた、生まれながらに足の不自由な男の人を癒したことから、大きな騒動が起きてしまいました。ペトロとヨハネが、「金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、彼はたちどころに癒されて躍り上がって歩きだし、神を賛美し、ペトロたちと共に神殿の境内に入っていったのです。
この男の人は、40歳を過ぎていたと、使徒4章22節にあります。生まれてから一度も立って歩いたこともない、神殿に入った事もない、人に運ばれてきて物乞いをしながら生活する日々を送っていました。
人は食物だけで生きる事はできません。世の中の良いと思われる品々を手に入れる事ができたとしてもそれによって本当の満足は得られません。彼は日々の食物を得る事が出来る少額のお金を得て生活ができても、その日暮らしで、将来の希望を持つ事は出来なかったのです。
神を礼拝する事が出来ない辛さや、立てない悲しさもあったでしょう。しかし、今日、突然に人生が変えられたのです。心と体の癒し、即ち、主イエスの救いを得て新しい命の中に生きる生活が始まりました。
その場にいた民衆は、この出来事に驚きました。その人々に向かってペトロは力強く説教をはじめたのです。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。・・・アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」(使徒3:11−13)。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神という言い方は、アブラハム、イサク、ヤコブの神ではなく、その一人一人と共にいて、祝福を下さる神であるという意味です。いずれも、神が共におられる、約束の地を与える、空の星のように国民を増やし、強くする。あなたを祝福の基とするという約束です。アブラハムは75歳の時召命を受けました。その子イサク、孫のヤコブも神の祝福を頂いているのです。
ペトロが神をこのように言い表わした時、民衆はあらためて自分たちの神を思い起こしたのです。
さらに、ペトロは、イエスがこの神から遣わされたメシアである事、イスラエルの民衆はイエスを十字架に架けて殺してしまったが、神はイエスを死者の中から復活させて下さった事を語りました。
足の不自由だった男の人を癒したのは自分達ではなく、イエスの御業であり、またイエスを信じる信仰によるのであると続けました。主イエスを「命への導き手」と紹介しているのです。(使徒3:15)
神が御子イエスを遣わされた目的は、人の救いの為です。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)
体と魂の永遠の救い、永遠の命を得る為です。人は罪を犯しながら生きていても意識できません。犯罪を犯す事が罪であると思っているからです。しかし、罪とは心の中にあるものです。「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て人を汚すのである」と、主は言われました。(マルコ7:21)人の心の中から出て来るものこそ、罪であると言われているのです。この罪の根本は自分中心という事になります。自分だけが良ければ良い、自分のしたい事だけする、自分を満足させる事しか考えない、人はみなそのようなものだと、イザヤも行っています。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」(イザヤ53:6)おのおの自分の道に向かったと、口語訳にはあります。どこに向かうのでしょうか。それは滅びでしかないのです。
イザヤは、「そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に(イエス・キリスト)に負わせた。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:5、6)と示したのです。イエス・キリストこそメシア、救い主、彼を信じ、悔い改めるならば、救いを受け、新しい命に生き続ける事が出来る。これが福音なのです。
ペトロは、「悔い改めなさい。神に立ち返りなさい」と勧めました。神は私達にもこのように語り続けておられるのです。
主イエスは「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう」(黙示3:20)と言われました。主イエスは神であるのに、その人が「お入り下さい」と、戸を開けるまで戸口に立ってノックし続けておられるというのです。その愛がどれほど計り知れないものかを言い表す御言葉ではないでしょうか。神の愛の証拠だといえます。
ペトロは、神が与えて下さる祝福は、「地上のすべての民族は、あなたから生まれた者によって祝福を受ける」(使徒3:25)という事だと語り、だから、まず救い主をあなた方の所に遣わして下さったとあります。
まず、あなたの元へ救いがもたらされました。あなたが救われたのは、祝福に預からせるためであり、あなたからその祝福が受け継がれていく為なのです。
@  祝福の元となる。神の祝福とは、現実の生活が豊かになるということではありません。物事がすべて自分の思う通りになるといったことでもありません。それは結果なのです。生活に必要な物は「これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)のです。神の御心を最優先しなさい、それを求めて生活しなさいと主イエスは教えておられます。そうすれば、「与えられます」と約束されています。
A  祝福を伝える。人がこの地上で豊かな物に満ちあふれ、高い地位についたとしても、いつしかそれは色あせてなくなるものです。人は必ずいつか死を迎えます。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることがさだまっているように・・・」(ヘブライ9:27)とある通りです。やがて主イエスの前に立ちます。
その時、「忠実なしもべ、義の冠、栄光の冠を与えよう」と言っていただくのが望みです。地上での働きは生涯一生懸命でなくてはなりません。しかし、それは主の栄光を表わし、主の祝福を受け継がせていく為のものでなければならないのです。パウロは自分の生涯が終わろうとする時に、「高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように」(Tテモテ6:17−19)とテモテに書き送りました。真の命に相応しく日々を送る事。それが御心です。
B  主の証人としての日々。
証人とは法廷で、自分が目撃した事、体験した事をありのままそのとおりに語る事です。私たちはこの目で主イエスを見た事はありません。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Tペトロ1:8、9)これこそが聖霊の働きです、私たちの内におられる聖霊が主イエスを証ししておられるのです。内から湧き上がる喜びと感謝、平安、これこそが祝福ではないでしょうか、主に委ねて歩む喜び、一切が喜びに変えられる祝福、感謝の日々、これこそがキリストの証人の姿なのです。
ハレルヤ!


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