阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年6月7日
「命を与える救い主」
ヨハネ10章7節〜18節

 主イエスはご自分を様々な譬えによってお示しになりました。「わたしは世の光」、「わたしは命のパン、命の水」、「わたしはまことのぶどうの木」というように、ご自分を表されました。人に命を与えるお方である事を語っておられます。
ヨハネによる福音書は、ゼベダイの子ヨハネによって記されたものですが、マタイ、マルコ、ルカによる福音書と少し表し方が違っていて、永遠の命について多く語り、非常に霊的な教えがなされています。例えばまことのぶどうの木については、ヨハネによる福音書にしか記載されていません。その枝である私たちは、「人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)とあるように、まことのぶどうの木である主イエスから、豊かな命をいただき、豊かな実を結ぶ事ができると約束されています。
ヨハネ15章には、良い羊飼いとしての主の御姿が描かれています。
私たちは常日頃羊を目にする機会はありませんが、当時のイスラエルでは羊を飼う人々や、羊を目にすることは珍しい事ではありませんでした。旧約聖書の中にも、羊や羊飼いに言及する個所はたくさんあります。
出エジプトのために召され、用いられたモーセは、エジプトからの逃亡、放浪の後、ミディアンという地でエテロという人の娘を娶り、舅(しゅうと)エテロの羊を飼って生活していました。そこで神の召命を受けたのです。
預言者のアモスは、召される以前は、貧しい羊飼いであったとあります。
また、あまりにも有名なダビデは、少年の頃父親の羊の番をしていました。詩編23編はダビデの作といわれていますが、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩の水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。・・・死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・・命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」と詠いました。
羊と羊飼いの関係をこれほど美しく歌い上げた詩はないのではないでしょうか。死の陰の谷を行く時とは、まさに何がおこるかわからない、本当に命の危険があるような所を行く時、そのような時も羊飼いは守ってくれる、共にいてくれるという、羊飼いに対する絶対的な信頼と平安に満ちています。羊飼いに頼り切る羊の幸いな姿に感動を覚えます。さらに、恵みと慈しみが自分を追いかけてくる。そして、やがて主の家、自分が本当におるべき所に帰る事ができるという確信に満ちています。羊には平安と安全しかないのです。
羊は一匹では生きる事が出来ません。迷いやすく、自分の家に帰る事もできません。主イエスは、人が100匹の羊を持っていても、1匹が迷い出たなら、99匹を山に残しておいて、その1匹を探しに行く。それを見つけたら迷わなかった99匹より、見つけた1匹の事を喜ぶ。
「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)と言われています。
ヨハネ10章7節、9節で主は「私は羊の門、私は門である。わたしを通って入る者は救われる。・・門を出入りして牧草を見つける。」と言われました。主イエスは羊の門であり、良い羊飼いであると言われました。羊は盗人や強盗が来ても言う事を聞きません。羊飼いの声を知っているからです。
@ 良い羊飼いは、羊の事を知っている。
羊を本当に大切にし、いつも心に留めている。群れの中の1匹1匹を知っていて、名前を呼んで連れ出し、養う。名前を知っているという事は、誰々さんという名を知っているという意味ではなく、その人の全人格、全存在を知っているという事です。主は私達一人一人を大切な愛の対象として守り、養っておられるのです。
A 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いの役割は羊を守り養い育てる事です。羊の安全を守る事が大切な役割です。羊が襲われるなら、命を懸けて羊飼いは羊を守ります。
主イエスは、「わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:15)と言われました。それほど羊が大切なのです。羊飼いと羊、
普通に考えたら、羊飼いの方が大切なのではないでしょうか。しかし、羊が大切なのです。これは計り知れない神の愛、それほどに人を愛して下さる神の愛の表れなのです。この良い羊飼いであるお方は、羊の為に十字架に架かり、罪の贖いを成し遂げ、豊かな命を与えて下さったのです。
B 羊飼いは囲いの外の羊をも導く。囲いの外の羊とは、ユダヤ人以外の異邦人(外国人)と考えることができます。当時ユダヤ人は、異邦人は救われないと思っていました。神の民であり、律法を与えられている自分達だけが救われると信じていたのです。
使徒言行録10章には、ペトロが神の導きによって、コルネリウスという百人隊長の家に招かれるという記事があります。彼は異邦人ですが、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使徒10:2)とあります。神を畏れ、絶えず神に祈っているという姿勢は、自分達には律法があると誇り、主イエスを受け入れずに十字架に架けてしまったユダヤ人と比較にならないほど信仰深いと思われます。真の神を慕っているのです。それで神はペトロを送り、さらに深く福音を伝えたのです。ペトロは最初はためらいましたが、「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないとお示しになりました」(使徒10:28)と語り、コルネリウスの招きに応じました。ペトロが福音を語ると、語っているうちに聖霊が注がれ、コルネリウスたちは洗礼を受けたのです。異邦人が救われ、彼らに聖霊が降るなどと言う事はユダヤ人には決して考えられない事でしたが、囲いの外の羊も神の民であり、何の隔てもなく救われたのです。
私たちも囲いの外の外国人と考える事が出来ます。主イエスの十字架の贖いによって救われたのです。主はどのような国の者であれ、信じる者に命を与えて下さる良い羊飼いとしてご自分を表しておられ、その務めを日々果たしておられます。
どこの誰であっても救い、豊かな命を与えて下さる羊飼いである主イエスを信じる私たちはどのようにしたら良いのでしょうか。
良い羊飼いに従う、良い羊でありたいのです。
道を踏み外し、迷う羊であってはなりません。「羊はその声を知っているので、ついていく。しかし、ほかの者には決してついて行かず逃げ去る。」(ヨハネ10:4)主イエスの声を知っているでしょうか。クリスチャンをも迷わそうとする偽羊飼いの存在があるのです。それは、「羊を屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」(ヨハネ10:10)とある通りです。命を与えるのではなく滅ぼすために近づいてきて、間違った所に連れて行こうとする。
私達は誰しも弱さをも、罪をも持っています。「贖われた罪人」であるとは、良く言われるところです。日々主イエスの十字架の元で悔い改め、罪許され、新しい力に満たされて生きる者です。罪への誘惑が来るかもしれません。優しい声で罪に誘われる事があるかもしれません。しかし、それは真の羊飼いの声ではありません。主にあって聞き分ける羊でなければなりません。
良い羊飼いは、私たちが歩けないような険しい場所に導くことがあるかもしれません。試練とよばれる体験です。なぜ、こんなひどい所を行かなければならないのか、と思う事があるかもしれません。しかし、羊飼いはその先に緑の牧場と、水際(みぎわ)がある事を知っておられるのです。羊にはわからないのです。羊飼いを信じて後に従っていく時、そこに祝福と命があるのです。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:10、11)
日々、御声を聞き分け、どこまでも主イエスに従っていきましょう。


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