阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年6月14日
「信仰による救い」
マルコ10章46−52節

 主イエスは全ての人を罪から救い、永遠の命を与えるために十字架に架かって下さいました。主イエスを受け入れる事のないまま生きるという事は、迷った一匹の羊であると考える事ができます。霊的迷子です。どのように立派な人であっても、迷ったままでは真の命に生きる事はできません。箴言16章25節には、「人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある」(口語)という御言葉があります。ある人は、自分は前途洋洋、何も心配ない。自分の歩みについて全く道を誤る事はないと思っているかもしれません。
ルカ12章には、愚かな金持ちの例え話があります。元々金持ちであった農夫の畑が豊作で、作物が有り余り、農夫は、「倉を壊してもっと大きい倉を建てよう。もうこの先何年も働かず、生きて行くことができる。食べたり飲んだりして遊んで暮らそう」と言ったけれど、神は「愚かな者よ、今夜、あなたの命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」とあります。人は今夜の命さえわからないのです。
あるいは、様々な心配事や問題を抱えながらも、自分はしっかりしているから誰にも頼る必要はない、と考える人がいるかもしれません。
また、悩み苦しんでもどうにもならないのだから、なるようになると、何も期待せず、ただ日々流されるように過ごす人もあるかもしれません。何も期待せず、何の希望もなく、この世をただ生きて行くのははつらい事ではないかと思われます。
何にしても、人は自分でこれが正しいと思う道を歩くのです。しかし、聖書はついに死に至る道と教えている事に注意しなければなりません。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」(イザヤ53:6)自分の思うように進んでいくのですが、そこに救いはなかったのです。
 今日の聖書の個所マルコ10章46節以下には、盲人バルティマイが癒されたという記事が記されています。聖書には癒しの記事が多いのです。バルティマイは、エリコの町で、盲人であるがために物乞いをして生活していました。彼はイエスが来られる事を耳にし、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、叫び始めました。多くの人が叱りつけたのですが、彼はますます大きな声で叫び続けました。
多くの人が叱りつけたとありますが、これは、主イエスの元へ子供を連れてきて、祝福していただきたいとやって来た人々を、弟子たちが叱った事と共通します。バルティマイや、幼子たちは価値のない存在であるという考え方です。今でこそ、人としての人権が認められ、誰でも人としての権利を主張できるのですが、当時は取るに足りない存在として、邪魔者扱いであったのです。「うるさい、邪魔だ」というわけです。
エリコの人々は、バルティマイを邪魔者扱いしたのですが、主イエスは社会的にも弱者である存在を邪魔にするお方ではありません。
愛し、受け入れ、関わりを持って下さるお方です。「神の国はこのような者たちのもの・・・、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」とあるのです。(マルコ10:14−15)
バルティマイの叫び声を主イエスは聞いてくださいました。「あの男を呼んできなさい」と言われたのは、叫ぶ男の姿を目にされたからであると考えられます。声を聞き、目を留めてくださったのです。
バルティマイは、主イエスを「ダビデの子イエスよ」と呼びかけました。主イエスは、律法学者たちが約束のメシアをダビデの子と呼ぶのに対して、「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と言われています。(マルコ12:37)これは、たしかに約束のメシアはダビデの家系から現れるのだから、「ダビデの子(末裔)」であるけれども、人であるダビデ以上のお方、神の子であるので、ダビデの子という言い方は真には相応しくないといった意味に捉えることができます。しかし、バルティマイは「ダビデの子、イエスよ」と叫びました。彼は、このお方こそダビデの末から来られるメシアに違いないという信仰によって、そう叫んだのです。叫びは主に届くのです。
主イエスに招かれた時、バルティマイの行動は意外なものでした。「上着を脱ぎ捨て」て、イエスの元へ行ったのです。バルティマイの持ち物は少なかったと思います。貧しい者の質草として上着を預かったら、日没にはそれを返さなければならないと、律法の規定があるくらいです。
財産であり、寝具であり、大切なものであったのです。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。」(出エジプト22:25)質草にはなるけれども、その日の内に返さなければならないという、神の憐れみによる律法があったのです。神は憐れみ深く、弱い者の声を聞くと、さらに記されています。そのように大切な上着を脱ぎ捨ててしまったのは一体なぜなのでしょうか。
それは、今日、たった今、主イエスによって新しい真の人生が始まるという喜びの表れなのです。
主イエスは、バルティマイに「何をしてほしいのか」と聞いて下さいました。彼は「先生、目が見えるようになりたいのです。」と答えました。主イエスは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われて、バルティマイはすぐに見えるようになりました。癒されたのです。癒されたということは、人生最大の問題が解決されたという事になります。
私たちにとって人生最大の問題とはなんでしょうか。それは、人は生まれた時から直ちに生物学的な死に向かって歩み始めるという事だと思います。人は病気で死ぬのではない、寿命で死ぬのであると、有名な日野原重明先生は語っておられます。1911年生まれ、103歳で現役の医師をしておられます。日野原先生は、人には寿命があって、それを上手に受け入れる事が大切だと言われています。103歳の人が言われるのですからインパクトがあります。それは、生物学的な命、この世で受けた命のことです。
やがて誰しもがこの世での命を終える時が来る。その時、十分に満足して生きてきた人は幸いであるといえます。自分の為にではなく、神に召され、神の御心に生きる時、初めて人生の満足があるのです。
主イエスは「わたしたちは、わたしをお遣わしになったかたの業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」(ヨハネ9:4)と言われています。夜が来ないうちに明るいうちに神の御心を行いなさいという事です。
それは、時間的な事を言われるだけではなく、機会を逃がさないということでもあると思います。今は自分の都合があるから神様の働きはできません。そのうちにと言っているうちに、「だれも働くことのできない」夜になると言われるのです。御心を行う日々をおくりましょう。私たちは、神に遣わされて、実を結び、その実がいつまでも残るためにまた、イエスの名によって父に願うものは何でも与えられる為に任命されているのです。
主イエスに従う決心はいつでもできると思ってしまいます。しかし、今が大事なのです。チャンスが失われてしまうと、いつしか夜になって身動きがとれなくなってしまいます。バルティマイは、目が見えるようになった時どうしたでしょうか。「なお道を進まれるイエスに従った」(マルコ10:52)とあります。この時、主の十字架が迫っていたのです。バルティマイは肉の目が見えるようになったと同時に霊的な目も開かれ、永遠の命に生きるようになったのです。死の解決です。永遠の命の確信をもって救い主に従う生き方の選択をしたのです。主イエスの十字架を目前に、イエスと共に歩む者に変えられました。目の障害の解決と共に永遠の命を頂き、喜びの新しい生活に入る事が出来た。これこそすばらしい奇跡であり、わたしたちにもその恵みによる救いが備えられている事を感謝しましょう。「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ10:52)あなたは、奇跡を受けるだけの信仰をもって私を求めていますかと、主はわたしたちに日々語りかけておられるのです。主に応答し続ける信仰を持ちましょう。



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