阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年6月21日
「父なる神の愛」
マタイ5章43−48節

 今日は父の日です。父の日は、母の日と同じように、アメリカの教会から始まっています。1909年に、アメリカ、ワシントン州のスポーケンという町のソノラ・ドッドという女性が、男手一つで自分たちを育ててくれたお父さんを記念する礼拝を奉げた事がきっかけになっています。1966年に、6月第三週目の日曜日を父の日とする事がアメリカで制定されました。キリスト教国ではない日本では、どうしてもプレゼントを売ろうとするキャンペーンに流されてしまい、父の日ギフトの宣伝が多くされています。お父さんにプレゼントをするだけでなく、本当の意味を考えなければなりません。
旧約聖書でも神様の事を父と呼んでいる個所があります。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず イスラエルがわたしたちを認めなくても 主よ、あなたはわたしたちの父です。わたしたちの贖い主 これは永遠の昔からあなたの御名です」
(イザヤ63:16)。新約の恵みの時代になってから、神はなおさら父としてご自身をあらわしてくださいました。主イエスは、祈りを教えて下さった時、「天におられるわたしたちの父よ」と、天の父に祈る事を示して下さったのです。神は、あなたがたのお父さんだという事です。それも、良いお父さんなのです。主イエスは、「パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:9−12)と言われました。これは、新約聖書の教えが凝縮している個所です。黄金律と呼ばれています。
父の御心は、愛によって与える事なのです。「隣人を愛し、敵を憎め」とは、レビ記に記されている戒めですが、ここでは、「敵を憎む」という言葉が強調されているようです。隣人を愛するなら、敵は愛せないという事であると考えられます。人は二つの思いを同時にコントロールできません。隣人を愛し、同時に敵を愛する事はできない。どちらかを憎む事になってしまうのです。ここでいう敵とは、異邦人の事を指します。   当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあって、圧迫と搾取を受け、 異邦人に支配されると言う屈辱と恥に苦しんでいたのです。ですから、敵とは、迫害する者、悪人、正しくない者、徴税人、異邦人と、言葉を変えて主は明らかに示されました。同じユダヤ人でありながら、徴税人は、ローマ帝国の手下となって同胞から税金をごまかして多く取りたて、私腹を肥やす者が多かったので、罪人として忌みきらわれていたのです。ここに挙げられているどの人たちも、自分たちの利益にはならず、かえっていない方がありがたい存在といえるでしょう。また、憎悪と蔑みの対象となるような人たちであったのです。
しかし天の父なる神は、どのような人たちに対しても公平な恵みと慈しみを注いで下さる方であると主イエスは言われました。
天の父はどのようなお方でしょうか。
@ 公平な愛の父です。「父は悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)のです。太陽と雨は人が生きて行くためになくてはならない物です。空気もそうだと思います。罪人には太陽も雨も空気も与えられないのかというとそうではなく、神は全ての人に恵みとして下さっているのです。真の神を知らない時から、あるいは敵対し、拒絶し、冒涜するような時でさえも、恵みを与え、良い物を与えてくださる父なのです。
真の神を信じる以前から、不思議にすべてが守られてきたことを思い出さなければなりません。行き詰まった時、助けられた経験はありませんか。慰められた事はありませんか。その時はわからなかったかもしれませんが、天地万物を創造された神が「私」を知っておられ、守り、導き続けておられたのです。その人が良い人だからという理由ではなく、どのような人をも無条件に愛しておられるからなのです。
A 訓練して下さる愛の父です。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5−6)父の子である者は訓練されるということです。子として受け入れてくださっている者には、皆に父の訓練がある。もしないとすれば、あなたは実の子ではないと続けられています。(12:8)訓練とか鍛錬はつらいものです。いつ終わるかわからない。なぜ神は私を辛い目に合わせるのかと思うのではないでしょうか。ここで気を付けなくてはいけないのは、自分の不信仰や不注意によって招いたことは試練ではありません。自分で招いたことで、自業自得です。それと神の試練を一緒にしてはいけません。自分に責任がある事に気が付いたら、直ちに悔い改めて祈る、そうすれば神は必ず答えて下さいます。
試練の目的は、神の聖さにあずからせるためです。当座は喜べることではなく、悲しいものですが、後になれば「義という平和に満ちた実を結ばせる」のです。
B 待ちわびる愛の父です。父なる神は大変忍耐強い神です。ルカによる福音書15章には、「放蕩息子」の例え話が記されています。
ある人に息子が二人おり、弟息子が父親の財産わけを要求して獲得し、遠い町に旅立った。そこで遊興と放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たし、おりからの飢饉で食べる物もなくなり、豚飼いとして雇われて働きながら、豚のえさが食べたいと思う位落ちぶれ果ててしまったのです。律法では豚は汚れた動物に挙げられているので、今でも、ユダヤ教徒やイスラムの人は豚や豚の脂の入った食物は食べません。豚の飼育をするという事は、ユダヤ人に最低のまたその下にいるという事なのです。
しかし、これは誰が招いたことでしょうか。前で述べたように、自己責任の範疇にある話です。神が与えた試練ではなく、自分勝手さの結果であったわけです。そこで彼は我に返って、お父さんの所には食べ物がたくさんある。天にもお父さんにも罪を犯した。もう息子とよばれる資格はない、雇い人の一人として扱ってくれればよいと思い、帰る決心をして家に向かいました。自分の身勝手さ、罪深さに初めて気付き、悔い改めたのです。まだ遠く離れているのに、父は息子を認め、走り寄って抱き、接吻し、息子が「もう息子の資格はありません」と言う間もなく、一番良い服を着せ、指輪をはめ、足に履物を履かせ、肥えた子牛を調理して息子の帰還を祝ったのです。悔い改めて父に立ち帰った時、息子として愛を持って受け入れてもらえました。父は、息子が自分勝手に離れて遠くに行ってしまっても、帰ってくるのを待ちわびていました。だから、姿形が変わっていても、遠くから認めることができたのです。神は神から離れ、迷子になり、彷徨(さまよ)う人々を忍耐強く待ち続けて、戻るならたちどころに受け入れて下さる愛の父なのです。「敵を愛し」という、この愛はアガペーという言葉です。神の愛、無償の愛、犠牲の愛です。何も相手に要求しない愛です。人は完全ではありません。しかし、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と主は言われています。それは、愛の対象として人を創造された父なる神様の御心である、神の愛、アガペーの愛を意識し、自分の意思(決心)によって、愛を表わして生活しなさいという意味です。人は神の形に似せて創造されたものです。それは神の性質に似せて造られたという事です。神の愛、アガペーの愛は、神の形なのです。人が神の形になるという事のたった一つの事は、人がどのような人であれ、どのような事をしたとしても、神が私たちを赦し愛し続けられるように、愛し、赦し、待ちわび、受け入れるということなのです。主は「敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈れ」と言われました。(マタイ5:44)自分が天の父に愛され、赦され続けている事を感謝しましょう。そして、行って、そのようにしなさい」と言われるお言葉に従って、生活の中で父なる神の愛をあらわそうではありませんか。家庭において良い、父であり、良き社会人であり、良きクリスチャンである事、日々決心し、自分自身の日々の歩みが良い天の父に似せられたものであるように、新たな信仰の決心を表したいと思います。あなたもあなたの家庭も天の父の良い物で満たされますように。アーメン



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