阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年7月5日
「忘れてはならない」
詩編103編1−5節

 今年も7月に入り、半分が過ぎました。7月は、阪神チャペルにとって記念の月です。1952年7月に、ジョンストン宣教師、岸辺勘次郎師によって天幕伝道が開始され、東灘教会伝道所として集会が始められました。1954年6月に尼崎教会として独立し、中澤四郎師が着任されました。ジョンストン宣教師、中澤師によって伝道の働きがなされ、その他多くの宣教師などが応援をされて、1955年5月、最初の会堂建築が始まりました。7月23日に、川崎一(はじめ)師司式で献堂式が行われました。この会堂は、ジョンストン師の発案、設計で進められ、基礎工事やコンクリートブロック作り、積み上げ、その他が、多くの奉仕者によってなされ、完成しました。ジョンストン師の幼い息子、キースちゃんも手伝いをしたそうです。その後、ジョンストン師は韓国へ、中澤師は、徳島からペルー伝道へと遣わされました。廣瀬師は1960年10月に着任されています。ジョンストン師は1960年に召されたので、1961年10月22日に追悼礼拝をささげました。その後、ビジョンが与えられ、新会堂建築に取り掛かり、1978年10月着工、1979年5月14日に教団名誉総理であった弓山喜代馬師により、献堂式が行われました。大切な記念です。今年3月9日に、ジョンストン師の未亡人であったハリエットさんが召されたという知らせが最近届きました。お元気だと思っていたので、大変驚きました。時がたち、当時の宣教師、牧師、伝道師、兄姉はほとんどが天国へ行かれました。しかし、その実である、この教会と、今、教会に召され、仕える私達一人一人は、宣教の経緯を語り伝えていく責任があり、忘れてしまってはいけないのです。人には、忘れなければならない事と、忘れてはいけない事があります。忘れてはいけないのは、今日の詩編の個所にあるように、
「主の御計(おんはか)らいを何ひとつ忘れてはならない」という事です。
主は私たちに何をして下さり、して下さっているのでしょうか。罪の許し。病の癒し。贖い。慈しみとあわれみの冠を与え、生きている限り良い物で満たす。鷲のような若さを日々新しくされる。このようにたくさんの祝福を下さっているのです。数えきれない祝福です。罪の赦しと病の癒しとは救いであり、この二つを切り離すことはできません。救いは、罪の許しと癒しなのです。人は原罪をもって生まれ、生まれながらに罪があります。親たる者は、幼い子供に何を教えるでしょうか。「お友達と仲良くしなさい。優しい心を持ちなさい、うそをついてはいけません。正しく生きなさい」と教えるでしょう。まちがっても「意地悪しなさい。喧嘩をしなさい。不正をしなさい」とは教えないと思います。子供には正しく生きて欲しいのです。しかし、教えてもいないのに、悪い言葉で人をののしる、喧嘩をする、うそはつくといった性質を誰しもがもっているのです。汚い言葉を使う子供に、「だれも教えていないはずなのに。どこで覚えたのだろう」と首をかしげる親もいるのです。しかし、老いた者も、壮年も、幼い者も、だれもが自分中心で人を非難し、裁き、自分が正しいという心を持っているのです。これが罪であり、的外れなのです。また、救いの機会が与えられているにも関わらず、神の救いの御手を拒絶するといった罪もあるのです。しかし、罪の解決がなければ本当の平安も感謝も持つ事はできません。心の中に不安や敵意や傷をもったまま生きなければなりません。主イエスは、全ての人の救いのために十字架に架かって命を捨てて下さいました。そして、三日目に甦られて、今も私たちと共にいて下さいます。これが福音です。忘れてはならないことなのです。神は私たちの罪を完全に忘れてくださったとあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。わたしに思い出させるならば、共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。」(イザヤ43:25,26)とあって、もし、神が私たちの罪を思い出すなら、私たちが神に申し立てて自分に罪がない事を立証しなければならないとあるのです。神の前に自分に罪がないことの証拠を示して、申し立てるなどと誰ができるでしょうか。皆罪人なのです。しかし、神は、もうあなたの罪は忘れた、と宣言されているのです。それが十字架の贖いなのです。「東が西から遠い程 わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」(詩103:12)とあるのです。
クリスチャンにとって大切な事は、救われたら、クリスチャンとして歩むということです。当たり前の事を言うようですが、これが大切なのです。聖書は、主イエスを信じる者は、異邦人と同じように考え、行動してはいけないと教えています。「異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ5:47)「異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタイ5:7)これは、異邦人である人々を蔑んでいるわけではなく、あなたもかつてはそうであったかもしれないが、救われた今はそうする必要はないのですと教えておられるのです。私たちもかつては異邦人だったのです。救いから遠い者でした。しかし、今は「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人である」(ローマ2:28−29)と聖書では言い表しています。キリストの贖いによって神の子、神の民とされたのです。それは永遠の救いであり、永遠の希望なのです。それを忘れてはいけません。
それでは、忘れなければならない事とはどのような事でしょうか。
サタンの名は「訴える者」という意味です。かつての罪や、受けた傷は忘れなければならないのです。フラッシュバックとか、トラウマとかいう言葉が頻繁に使われます。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という事も良く聞きます。恐ろしい体験により、心に深い傷を受け、それが癒される事がないため、後々症状として激しく出て来てしまう事です。人の心は傷つきやすい脆(もろ)いものです。何十年も前の出来事がいつまでも傷となって残ってしまうのです。それは、恨みという感情ともつながるものだと考えられます。また、許すことができないことにもつながります。恨みとか、許せないとかという思いの処理は難しいものではないでしょうか。サタンはその感情に火をそそぎ、許せないのは当然だ、もっと憎め、苦しめなどと煽り立て、訴えるのです。他の人に対してだけではなく、自分自身に対しても、罪深い人間、信仰のない人間、神の愛から遠い人間などと、自分で自分を裁くような思いに駆り立てて、自滅させようとするかもしれません。その弱さはどこから来るのでしょうか。「忘れない、許さない」という思いからくるのです。その感情を自分でしっかり握って離さないところに問題があります。主イエスは、私達一人一人の罪を十字架で許し、まったく罪のない者として下さいました。許されたのです。許された者を訴える事はできません。そして、許された者は許さなければならないのです。自分が罪深いと自覚できる人は幸いです。贖いのありがたさ、尊さがわかるからです。罪の自覚が薄い、あるいはそれがなければ、主イエスの十字架の意味がわかりません。一般論であって、自分に直接かかわる出来事として受け入れられないからです。私たちはイエス・キリストから何を頂いているでしょうか。永遠の命、永遠の救い、豊かな恵み、憐れみ、慈しみ、慰め、数えきることの出来ない良い物を頂き続けているのです。詩編23編6節には、「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」とあります。恵みと慈しみがいつも追いかけてくるというのです。天地万物を造られた全能の神が私を愛し、このように受け入れてくださっている。すばらしい祝福です。過去のどのような傷も癒されるのです。本当に癒されたいと心から願い、祈るなら、過去のどのような傷も、現在の問題も、願ったようにして下さるのです。私たちはまっすぐな心を持たなければなりません。自分で自分の心をごまかしてはいけないのです。ダビデは罪の悔い改めを厭いませんでした。「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。・・・主に私の背きを告白しようと。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。神に従う人よ、主によって喜び踊れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声を上げよ。」(詩編32編5、11)神の前に正直に自分をさらけ出し、許され喜びの声を挙げています。神の愛を忘れてはいけません。自分が贖われた者である事を忘れてはいけません。
「愛は恨みを抱かない」(Tコリント13:5)
豊かな祝福を喜び、感謝し、救いの喜びに満たされて伝えましょう。




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