阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年7月12日
「人の子イエス」
マタイ8章18−22節

 じめじめとした鬱陶しい日が続きますが、日々守られている事を感謝します。
人は一週間単位で生活しています。10日単位ならきりが良いなどと思った事はありませんか。しかし7日間なのです。これは、全能の神が7日間で天地万物を創造され、人を創造された事によります。一週間という概念がほとんど全世界に浸透しているという事は、真の神が創造主である事の証しと言えるでしょう。ユダヤの安息日は土曜日です。土曜日には仕事を休み、律法を朗読し、かつての過ぎ越しを思いおこし、家族で神のしてくださった事を記念しました。エジプトでの奴隷生活からの解放です。自由な者とされ、約束の地、カナンへ帰還したことの記念です。忘れてはならないと記念したのです。やがて時が満ち、約束のメシアが来られた時、彼らはメシアであるイエス・キリストを受け入れる事が出来ませんでした。しかし、主を信じた者たちは十字架に架かられ、三日目(日曜の早朝)に復活された主イエスを記念して日曜日に集まり、礼拝をささげるようになりました。ですから、日曜日を「聖日」、「主の日」とも呼びます。これは、キリストが生きておられて私たちに限りない祝福を注いで下さっているという事の証しなのです。私たちの信仰と生活の基本は、主の日に礼拝をささげることにあります。
「あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげる」、(ローマ12:1口語)そこからすべてが始まるのです。
今日は、主イエスが「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われたところから御心を知りたいと思います。「人の子」という言葉は、主イエスがご自分のことを指していわれる言葉です。人の子という表現は、ヘブル語では「人」と同じ意味です。主イエスが人の子とご自分をさして言われたのは、神でありながら、地上では人であられる事を表わす言葉であったからと思われます。「神が人として受肉された」という事を示されているのです
さて、一人の律法学者が「先生」と、主に語りかけ、「あなたのおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と申しました。律法の専門家であり、教師である人物が「先生、ラビ」と、最高の敬称で主に呼びかけて従順を示しました。しかし、彼は、不思議な御業をなし、権威ある教えをされている「教師」としてのイエスを理解しているだけで、救い主メシアとして受け入れていたわけではありませんでした。イエスのお答えは、「私に従ってきなさい」ではありませんでした。「狐や鳥にさえ休む所があるのに、私には定住する家もない」というものでした。イエスに従うには、犠牲がともなう事を指摘されたのです。主は神であるのに、地上では貧しい姿をとられました。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」(イザヤ53:2口語)とあるのです。
主イエスは、華々しい美しさや、人が称賛するような地上の誉(ほまれ)とはまったく無関係でした。そのような生涯をおくられました。家畜小屋で誕生され、貧しい大工の子として成長された事、エルサレム入城の時、子ロバに乗られた事、最後の食事の時弟子たちの足を洗った事など、数えきれないほどの謙遜さをお見せになりました。「僕(しもべ)のかたち」(フィリピ2:7口語)をとられたのです。
また、他の弟子が「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(マタイ8:21)と主イエスに言いました。主イエスは、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。
今度は弟子になっている者に対するお言葉です。難解な問答とも考える事ができます。意味がよくわからないのです。
バークレーという聖書学者が、中近東の習慣からくる言い回しについて解説しています。シリヤで働きをしていたある宣教師が、裕福で知的なトルコの青年に、見聞を広めるためにヨーロッパ旅行を勧めた時、彼は「わたしはまず父を葬りに行かなければなりません」と答えたのです。宣教師はこの青年の父親が死んだのだと思って慰めの言葉を言うと、父親は健在との事です。わけがわかりませんでした。それは、旅行に行く前に、両親や家族に自分の義務を果たさなければならないという意味だと言うのです。すなわち、現在元気で生きている父親を葬るという義務を果たさなければ旅行には出られないという、気の長い返事であったわけです。この弟子の返事も「わたしは、父がいつか死んで義務を果たし終わったら従います」という意味で、主に従う事の無期延期を述べているのです。「いつ従えるかわかりません。いつか従える時になったら従います」という意味です。
主イエスは、父親がやがていつか召されたら、その時には、しかるべく葬りのすべてがなされると言われたのです。
主は二人に対して別のお答えをされました。律法学者に対しては、従っていく事の困難さです。この世の誉や富や地位はありません。その覚悟はありますかという問い掛けです。一方、すでに主の弟子になっている者に対しては、自分の都合や考えで従う事を延期してはならない事を教えられました。今従わなければ、その機会は失われてしまうという事を主は指し示されたのです。
誰にでもさまざまなチャンスが与えられています。人は、多額のお金を支払わなければ手に入れられない物は価値のある物と考えます。
そして、ただで差し出された物には価値がないと思って心に留めない事があるのです。しかし、人にとって本当に大切な物はお金では得る事が出来ません。空気や、水はどうでしょうか。もちろん水道代は支払いますが、世界中、あるいは日本中の人が使うすべての水を人が作り出すことはできません。空から降ってくる雨水や、山の伏流水で賄(まかな)うのです。尼崎の水道は淀川から取水した水を浄水場で浄化して使用しています。また、人は空気がなければ5分として生きる事はできません。今は梅雨時で毎日曇りか雨です。一年中このような天気だったら気分も落ち込んでくるでしょう。太陽の恵みも人には大切なものです。
神は人が生きる為に必要な物を与えて下さっています。人の心をお金では買えません。親は子供を一生懸命育てます。愛情なのです。どんな犠牲も犠牲とは思わないでしょう。友情や、人の好意もお金では買えません。
主イエスが下さる最も良い物は永遠の救いです。これも無料なのです。ただだから価値がないのではありません。お金でも、または地上のどのようなものでも買う事の出来ないほどの価値あるものなのです。代価は主の十字架なのです。たしかに主イエスに従う道は険しいのかもしれません。イエスは「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13,14)と言われました。滅びに通じる道は一見広くて入りやすい、そこから入っていく人が多いから、私もそちらが良いと思ってしまうかもしれない。道も広くて歩きやすい。世の中の楽しみや自分自身の興味を満たす事ができる。なんとなくみんなそうしているから安心できるなどと考える事のできる道(生き方)です。でも、それは滅びに向かう道なのです。命に通じる門はなんと狭いのでしょうか。いままでの自分や周囲の価値観と違う。ここから入ったら世間と違ってしまうのではないか。人が何と言うだろうか。主イエスに従う事などできるのだろうかと、恐る恐る進んで行くかもしれません。その道は命の道なのです。永遠の命なのです。狭く歩きにくい道でも、主イエスはなんと言われたでしょうか。「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言われたのです。これは、わたしの軛はあなたの体にあっているという意味です。パレスチナでは牛の軛はその牛の首に合わせて微調整し、負担にならないよう、首がすりむけないようにつくったのです。主の道は狭く歩き難いかもしれないが、あなたを苦しめるような軛はない。そして、荷物も重くはない。主が共に歩み、共に背負うからと語られました。それは、主イエスの愛なのです。あなたの身丈にあう事をしよう。あなたが負うことのできる事をしよう。だから安心しなさい。安心して私に従いなさいと呼び掛けられるのです。主イエスは愛そのもののお方です。日々信仰の決断をして、安心してどこまでもいつまでも主に従っていきましょう。




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