阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年7月19日
「イエスの招き」
マルコ3章13−19節

 日々主の守りの御手の中にある事を感謝します。7月の第三主の日を迎えました。いよいよ今週土曜日は記念集会、つぎの日曜日には記念礼拝があります。講師の上に油注ぎがあるよう祈りましょう。
土曜日は久々の集会ですが、私たちの教会にとって特別な記念となっていますので、みなさん必ずご出席ください。また、日曜日も山城先生をお迎えしての特別礼拝です。家族や友人をお誘いください。
今日は、主イエスが12人を選ばれて使徒とされたという個所から御旨を探りたいと思います。主イエスが、最初に宣教を始められた時、ガリラヤ湖の漁師であった4人の人を招いて、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と言われました。シモン(ペトロ)、兄弟アンデレ、ゼベダイの子、ヤコブとその兄弟ヨハネが主イエスに従いました。また、「マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(マタイ9:9)とあります。このようにして、イエスの周りには従う人の群れができていったようです。今日の聖書の個所によると、イエスはそれらの中から12人を選んで使徒として任命されたとあります。12というのは、昔イスラエルが12部族から成り立っていた事から、神の民であるイスラエル全体を表わす数字と考えることができます。主がこれらの人々を任命された理由は二つあります。「彼らを自分(イエス)のそばにおくため」と、「派遣、宣教」のためでありました。
「彼らを自分のそばにおくため」とは、直訳では「彼ら(使徒)が彼(イエス)と共にいるため」という事です。イエスが行くところにはどこへでも共に行き、イエスの説教を聞き、イエスの御業に参加し、イエスと生活を共にする事です。さらに、イエスが12人をお立てになったのは、彼らを遣わされるためでした。
私たちが、自分と主イエスとの関係を考える時、この二つの面、イエスと共にいる事と、イエスの元から遣わされて宣教するといった二つがある事を覚える必要があると思います。この二つは切り離せない事です。弟子たちは、12人が2人1組になって遣わされ、働きました。(マルコ6:7以下)イエスの働きに用いられたのです。
人間の世界の事を考えると、弟子入りというのは、これといった師匠を見込んで、頼み込んで弟子になるのではないでしょうか。ところが、聖書にある師弟関係は、この逆が多いのです。たとえば、預言者エリヤは弟子のエリシャを招きました。(T列王19:19−21)。エリシャが12軛(くびき)の牛を使って畑を耕している時、エリヤが通りかかって外套を彼の上に投げ掛けました。その時エリシャはエリヤに従っていきます。訓練の後、使命の為に遣わされるのです。エリシャは困難な時代の中で神の言葉を語り、用いられました。
主イエスの場合も同じで、イエスの方から弟子を招き、訓練し、使命の為に遣わすのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
(ヨハネ15:16)とある通りです。
私たちも主イエスに招かれて信仰に入りました。決して私たちが主イエスを選んだのではありません。もし、私たちが主を選んだのなら、主体は私たちにあるので、もし何かに躓くなら、主イエスを捨てる事が出来るのです。然し主イエスが選ばれたのなら、主に主体があって、その愛の御手を私達から振り払う事はできません。選びの理由はわかりません。やがてイエスの前に立つ時、明らかにされるのです。旧約聖書では神と人との関係を陶工とその手の中にある粘土の関係で譬えています。「しかし、主よ,あなたはわれらの父。あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザヤ64:7)とある通り、神に造られた者は、神の御手の中にあって、御心のままに用いられるという厳粛なご計画があるのです。私たちは、そのご計画に対して敬虔な畏れをもって応答していかなければなりません。私たちは、主の御言葉によって信仰が養われ、様々な試練によっても信仰が鍛えられ、イエスが下さる喜びと平安によって遣わされます。
クリスチャンの信仰というのは不思議なもので、一人では維持できないのです。時々、私は「教会」には行かないけれども信仰は堅く保っているという人がいるかもしれません。様々な理由があるのかもしれません。しかし、私は堅い信仰があるから教会にいかなくても構わないなどと考えると、自分では信仰があると思っても、実質的に主から離れてしまう事になります。有名なクリスチャン詩人の水野源三さんは、脳性マヒの為に動く事ができず、自宅で療養しておられたので、一度も教会に通った事はありませんでした。しかし、牧師が訪問し、礼拝の時を持っていたのです。家の教会で礼拝したのです。御言葉の解き明かしが正しくなされ、礼典が執行される所、それが教会です。教会での礼拝で兄弟姉妹と共に神を崇められる事は、私たちの信仰と生活の根幹なのです。イエス・キリストが生きておられる事の証しであり、信仰の告白なのです。そして、ここに集められ、強くされ、この世に派遣されるのです。
主イエスは、弟子たちを派遣するにあたって「狼の群に羊を送り込むようなものだ」(マタイ10:16)と言われました。ルカ10章の並行記事では、「小羊を送り出すようなもの」とも言われています。戦うすべのない、か弱い小羊、羊がどのように勝利できるのでしょうか。
心も体も礼拝によって癒され、御言葉によって強められ、目を覚ましていなければ、小羊は狼と戦う事はできません。派遣の目的はイエスがキリストである事、この方の十字架の贖いによって、罪が赦され、永遠の命が与えられる事を伝える事です。派遣先は自宅かもしれませんし、職場かもしれません。いずれにしてもあなたが入っていく事の出来る場所です。与えられた機会を逃さずに、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」宣教できるように備えなければなりません。蛇の賢さというと、アダムやエバをだました悪知恵を思い出してしまいますが、賢さとは、どのような場にあっても主イエスに冷静に依頼する賢さなのです。また、素直さとは、純粋にイエスに信頼するという事です。人ではなく、神に純粋に信頼する賢さと素直さを持って戦いなさいという事なのです。
教会とは、集い、派遣されて行く主の臨在の場です。今年は教会創立60周年であって、これまで多くの宣教師や、牧師、兄弟姉妹が教会を維持し、福音のために用いられてきました。ここは神の教会です。
選ばれた12使徒は、様々な職業や信条をもった人々でした。マタイはローマ帝国の手先となって、人々から税金を搾り取る売国奴、罪人と指差されるような人でした。熱心党のシモンと呼ばれたシモンは、原理派であり、ローマ帝国に対して革命を起こす事を目指している組織の人でした。まったく生き方が違ったのです。右と左程誓いました。しかし選ばれたのです。それまでの生き方や、信条は関係ない。これからが大切で、神の国のために用いられるのです。
私たちの教会の最初の献堂式は1955年7月23日です。会堂が建て上げられた時、それに携わった人々はどれほど嬉しかったことでしょうか。3回の増築の後、今の会堂が1985年4月に完成し、5月14日に献堂式が行われました。
1955年当時にこの教会建設にかかわった方々は、ほとんど天に召されています。地上にはおられません。しかし、私たちは、その方々の信仰と祈りと労苦の上に、今立たされています。昔の事は知りませんとはいえないのです。今、私たちがこのキリストの教会に導かれている事は偶然でしょうか?いえ、神のご計画、召しなのです。主が召されたのです。かつての兄弟、姉妹たちが用いられたように、私達にも主の御用があるのです。今、ここにあなたが必要だと主イエスは改めて言われています。ここに集まり、礼拝し、キリストにある交わりをなし、遣わされていく。そして、やがて今ある私たちも天に移される時がくるでしょう。その時まで、主イエスが求められるのは、キリストの体なる教会を建て上げるために、どのような時も誠実に、確実に従っていく、あるときには忍耐し、労苦しながらも主と共にある事を喜び従い続けること、語り続ける事ではないでしょうか。生きておられるキリストを体験し、キリストを表わし続ける、これが神の栄光を表わす事であり、60周年を迎える私たちの信仰の決心ではないでしょうか。




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