阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年8月2日
信仰によって歩む
ヘブライ11章8−16節

 先週は、愛する兄姉の祈りと奉仕で、60周年記念講演会、記念礼拝を行う事ができました。幸いな恵みの時を分かち合い、みなさんそれぞれが主に教えられ、新たな信仰の決心をされた事と思います。
三浦綾子読書会代表の森下辰衛先生は、「道ありき」から、あなたには神を知らない以前から道が備えられている、そしてこれからも神が導いてくださるから、どんなに苦しくても、危機的状態でも、失望しないで、絶望しないで、備えられている答えを信じなさいというお話をして下さいました。神は命に至る道を備えられているのです。
山城先生は、「流すべき三つのもの」というテーマで、クリスチャンとしてどのような歩みをなすべきかを教えて下さいました。「汗を、涙を、恵みを」流すクリスチャンであれと、奨励されました。
私たちには、イエス・キリストを真の神、救い主として信じ、受け入れる以前から、神の救いの手が絶えずのばされていました。誰かに教会や、主イエスの事を話すと、多くの人が、子供の頃、日曜学校へ行っていたとか、幼稚園や学校がミッション系だったとか、讃美歌が好きだとか、ラジオ放送を聞いた事があるとか、様々な関わりがあった事を話して下さいます。福音を聴いているのです。しかし、聞いたその時、福音が自分と直接関係があると信じるまでには至らなかったのです。そこに何がなかったのでしょうか。それは、信仰です信仰によって自分に結びつける事ができなかったのです。
信仰とは、@神がお語りになり、指示されたら、それに直ちに従う事です。信仰には行動が伴うものなのです。主イエスはあなたの救い主ですと紹介されたら、すぐに信じて従う事です。そこから限りない祝福が注がれ始めるのです。今日のヘブライの聖書個所は、創世記12章のアブラハムの召しを例にとって教えています。アブラハムはハランという所に住んでいたのですが、ある時神から召されました。75歳の時でした。神は、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」と語られました。アブラハムはその御言葉に従い、行先を知らないまま出発しました。また、妻のサラは不妊でしたが、神はアブラハムを大いなる国民にすると、約束されたのです。目に見えるところでは、全く可能性はありません。ヘブライ11章8節には、「アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」とあります。行先については、あらかじめ自分の目で見る事ができて、触れられて、確実に自分の財産となるというような権利書も何もないのです。どこへ行くのかもわからない。しかし、アブラハムは、妻のサラ、甥のロトを伴い出発しました。ヘブル11:8には、「服従し」とあるのです。「信仰による出発」でした。
アブラハムは遊牧民でしたから、いつも幕屋(テント)住まいでした。
それは、この地上が自分の住まいではなく、永遠の都、住まいが準備されている事をはるかに望んでいる事を表わしています。神が設計者であり、建設者である都です。しっかりした土台の住まいです。丁度、主イエスが十字架の前に、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(ヨハネ14:2)と言われた通りなのです。神が備えておられる場所が用意されている。アブラハムは、この地上は、仮の住まいであり、やがて神が備えておられる故郷へ移される事を固く信じていました。
アブラハムは100歳になり、妻のサラも90歳になった時、約束の子、イサクが与えられました。約束されてから長い年月がたっていました。しかし、神は約束された事を必ず成就されるのです。アブラハムは大いなる国民の父、信仰の父とされました。
A信仰とは、神との交わりの中に共に歩ませていただく事です。
ヘブライ11章には、人の名前がたくさん記されています。前半には、アベルとカイン。(11:4)エノク。(11:5)ノア。(11:7)そして、アブラハムです。それぞれのエピソードが簡単に記されています。アベルとカインは、アダムとエバの子供達でしたが、捧げ物を巡って、兄カインが弟アベルを殺してしまうという恐ろしい出来事がありました。罪がはっきりと表れたのです。アベルが正しい心と信仰で奉げた捧げものを、神は受け入れて下さった。カインは自分の奉げものが受け入れなかった事を激しく怒って、アベルを殺してしまったのです。神は、カインに警告しましたが、悲劇が起こりました。しかし、「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」とあるのです。エノクという人は、創世記5章23節に、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と記されている人です。ノアは、地上にこれ以上ないほどの罪がはびこっても、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(創6:9)とあるような信仰の人でした。神の啓示に従って家族と共に箱舟を作り、滅びから免れることができたのです。「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」(創世記6:22)と、神が設計されたとおりに、箱舟を作り、生き物を乗せ、その時を待ちました。世の中がどれほど乱れても、罪が覆っても、ノアがそれらに迎合したり、影響される事はありませんでした。基準は世ではなく神なのです。どのような時代であっても、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」(ローマ12:2)と、神は語られるのです。心の中心に神をお迎えしている人の姿勢です。
B信仰とは、はるかな先を見て、希望を持ち続ける事です。視線が足元ばかりになってはいないでしょうか。今日明日の悩み、思い煩いだけに縛られているようなことはないでしょうか。
先に挙げた人々は、信仰の人でした。しかし、「約束のものは手にいれませんでした」と11章13節にあります。しかし、望みがかなえられるのに長い年月がかかっても、絶えず希望を持ち続けたのです。信じる事をやめないで、ひたすら希望を持ち続けました。希望は待つことです。また、どのような困難があっても、元に戻る事はしませんでした、後戻りしなかったのです。出エジプトしたイスラエルの民は、試練がおそうと、不満をもらし、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会集を飢え死にさせようとしている」と言いました。人は勝手なものです。奴隷として呻き苦しんでいたことなど忘れて、エジプトの奴隷時代の方がよかったというのです。永遠の救いよりも、この世の一時的な快楽の方が良いという悲しい価値観です。これが人の罪の姿であり、私たちにとっても陥りやすい弱さである事に注意しなければなりません。マナをもって40年荒野でイスラエルを養い、導かれた神が、今、私たちを導いておられる事を信じ、しっかり前を向き、備えられている天の故郷を見据えて歩まねばなりません。私たちも彼らと同じように、「この地上ではよそ者であり、仮住まいであることを公に言い表した」(ヘブライ11:13)という信仰に生きる者です。私たちもこの世に生きながら、旅人です。天の故郷があるのです。よそ者(ヘブライ11:13)という言葉は、文字通り、異国人、外国人を指しますが、当時、異国人はその社会に受け入れてもらえませんでした。ただ異国人であるというだけで差別されたのです。何か悪い事をして追放されてきたのではないかという疑いの目で絶えず見られるのです。アブラハムの時代、異国に住む事は、今の私達には考える事が出来ない位、屈辱的な事でした。元来ヘブライという言葉は、古代イスラエル民族を指しますが、「川の向こうから来た者」という意味があり、他民族がユダヤを指して言う言葉なのです。キリストに贖われて、主を信じ、従う私たちも、この地上の生活は旅人であり、寄留する者です。故郷がある。しかし、いまは旅暮らしなのだという意味です。神の国に属する者がここに遣わされて用いられているのです。そして、やがて働きが終わったら故郷へ帰って行くのです。「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)クリスチャンの希望は神にあります。この神は、彼らの神(私たちの神)と呼ばれる事を恥となさらない神です。信仰に生き、歩み、神の素晴らしさを体験し、証しする信仰者としてこれからの日々も神とともにキリストの御体を建て上げて行きましょう。




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