阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年8月9日
「平和の主・キリスト」
エフェソ2章11―22節

 8月第二週の礼拝を皆さんと共に奉げられることを感謝します。毎週日曜日、主の日に礼拝を捧げる事は、私達の信仰と生活の中心です。
今日も主を見上げ、霊と真をもって礼拝を捧げましょう。
平和を望まない人はいないと思います。今年は終戦後70周年という事で、8月に入ると連日、戦争の記憶が報道されます。本当に悲惨で、目を背けたくなります。原爆でどれほど多くの人が亡くなったか。怪我をしたか。人が苦しい目に合い、死ななければならないのが戦争です。悲惨です。それなのに、世界では、今だに争いが続いているのです。テロや内戦、他の国との争いがあるのです。聖書は「何が原因で、あなたがたの間で戦いや、争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」(ヤコブ4:1−2)とあり、人の持っている欲(罪)が原因であると語っています。支配欲や物欲に支配されるところに争いが起きるのです。これが個人間でも国家間でも根本的な原因となる事なのです。また、人には、他の人を警戒し、疑い、退けるという性質もあります。自分の権利が侵されて利益が損なわれてしまうのではないかという警戒心や不信感です。いずれにしても、他の人はどうなっても構わないが、自分だけは良い思いをし、安泰でありたいという人の思いが不幸をもたらしてしまうのではないでしょうか。
エフェソ2章をお読みしました。現在、エフェソはトルコにあるのですが、当時の様子が遺跡として残っています。エーゲ海沿いの観光地で、ヨーロッパから多くの観光客が訪れる場所です。石で造られたローマの町づくりの遺跡の道路には、観光客がぞろぞろ歩いています。私たちがパウロの足跡をたどる旅で訪れた時、ガイドが、「2000年前も、今と同じようにこのように多くの人々がこの道を歩いていたのです」と、語ったのが印象的でした。
エフェソの教会へ宛てた手紙は、パウロがローマの牢獄の中から出したので、獄中書簡と呼ばれています。この手紙の主題はキリストにあって一致するという事です。一つとなるという意味です。
「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、・・・・キリストとかかわりなく、・・・契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていましたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い物となったのです」(エフェソ2:11−13)とあります。
ユダヤ人は、自分たちは、神に選ばれた民、聖なる民であって、律法をもたない異邦人とは付き合わないという、選民意識を持っていました。特権意識です。ユダヤ人だけが救われるのであって、外国人に救いはないと固く信じていたのです。使徒10章には、ペトロが神に示されてカイサリアのコルネリウスという、ローマ人の百人隊長を尋ねたという記事があります。当時ペトロでさえ、「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」(使徒10:28)と語っています。「異邦人とは付き合わないのです」と言っているのです。しかし、コルネリウスの家で、ペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。・・この方(イエス)こそ、すべての人の主です。」(使徒10:34−36)と語り、「この方(イエス)を信じる者はだれでもその名によって罪の許しが受けられる・・・」(10:43)と語りました。ユダヤ人にとって、異邦人が救われるという事は、考えられない事だったのです。ペトロは神のお取扱いによってこの事を理解しました。コルネリウスと家族は、イエスを信じ、聖霊を受け、又、洗礼を受けたのです。
エフェソ2章11には、以前の姿が語られています。「キリストとかかわりなく・・・・」神を知らず、神による希望も約束も知らずにいたとあります。また、2章1―3節には、「あなた方は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。・・・・以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり・・・」とあります。神を知らない者の姿です。そのような者であったのに、キリストは十字架の血汐をもって贖って下さった。救いにあずからせてくださったのです。ユダヤ人であっても、異邦人であっても救いには関係ないのです。
エルサレムの神殿は、周りにいくつかの庭があり、その中心に神殿の建物が建っていました。聖所、至聖所がありました。祭司の庭、ユダヤ人(男子)の庭、婦人の庭、異邦人の庭に分かれていて、それぞれ入っていける庭が決まっていました。異邦人の庭と、婦人の庭の境には、壁がありました。美しく装飾された衝立のような壁でしたが、そこには恐ろしい言葉が刻まれていました。「如何なる国の如何なる人も、聖所を囲む垣根と障壁の中に入ってはならない。あえてこれを犯す者は、誰でも、死罪を受ける事になるであろう」とあったのです。外国人は入ってはならない。これが、14節でパウロが言っている「隔ての壁」の事なのです。主イエスは、どのような事をされたのでしょうか。「二つのものを一つにする」、「敵意という隔ての壁を取り壊す」、「十字架を通して両者を一つの体とする」、「神と和解させる」、即ち、救いによる平和を下さったのです。ユダヤ人であろうと、外国人であろうと、キリストによって一つにされ、神に近づく事が出来るようにして下さった。以前は神に、救いに遠い者であったかもしれないが、今は、キリストによって聖なる民、神の家族とされた。神の国の民、神の国において、外国人でもなく、寄留者でもない者(エフェソ2:19)とされました。先週、私たちは、この地上では、寄留者、旅人とお話ししました。主を信じる者は、神の国に国籍を持つ者なので、この地上では寄留者、旅人なのです。主イエスが伝えて下さったのは、「平和の福音」です。主イエスは、平和をもたらして下さる方、平和を作り出して下さる方だけではなく、平和そのもののお方であることを心に留めなくてはなりません。主イエスが平和の主なのです。御霊の実は「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22)とあります。さらに、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(5:24)と続けられています。主イエスを信じた者は、主イエスの品性を内に実らせるのです。平和そのもののお方の性質を実らせる事ができるのです。
信仰は現実の生活のなかに現れるものです。信仰と生活は一体です。「御言葉を行う人になりなさい」と、ヤコブ1章22節にあります。「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と続いています。平和そのものであられる主イエスの平和を表わすのは、私たち一人一人なのです。あなたは心の底から平安であり、主イエスの救いを感謝していますか。他の人を裁いてはいませんか。恨みや敵意をもっているような事はありませんか。人を疑ったり、軽蔑しているような事はありませんか。人に何かをして欲しいとか、求めすぎてい事はありませんか。あるいは、自分の事を裁いていたり、受けた傷をそのままにして苦しんではいませんか。それは、平和な状態ではありません。また、必要以上に自分が優れた人間であるようにふるまうのも、人からの賞賛や高い評価を求める事にも、うそ、偽りにも平和はありません。
ありのままの状態で主イエスの前にでて、「平和の主」である、キリストにふれていただく時、キリストの平安が湧き上がるのです。自分の心の中に平安が宿ると、人との平安を保つ事ができます。家族の関係が、人との関係が、平和になるのです。話を聞いてもらいたかった人が、人の話に耳を傾ける事が出来るようになる。自己主張しかできなかった人が人を受け入れるようになる。心の中にあった、人を拒み、受け入れようとしない壁を主イエスによって取り除くなら、主イエスがもたらして下さる平和の喜びを知る事になるのです。
世界の平和はどのようにして来るのでしょうか。平和の主である、イエスを心に受け入れたあなたの心から始まるのではないでしょうか。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)
神の子、神の家族とされているこの幸いと祝福を感謝します。
ハレルヤ!!



 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ