阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年8月16日
「神の国は平和」
ローマ14章17節―19節

 8月は、終戦記念日を迎える事で、とりわけ平和について考えさせられます。先週の礼拝でも、キリストは平和そのものであるお方と、お話ししました。ですから、主イエスを救い主を受け入れ、神の子とされた者は平和に生きる事が出来るのです。
 聖書は、言うまでもなく神の御言葉です。真理の御言葉です。神が私たちに余すところなく御心をお話し下さっているのです。神の言葉を聞き、心に留め、そして実行する所にすばらしい祝福の実が結ばれます。
  ローマ人への手紙は、パウロがコリントにいた時、紀元60年頃に書かれたものと言われています。ローマ教会にむけて、「信仰によって義と認められる」というテーマで書かれた手紙です。ルターが、ローマ書によって「信仰の義認」という真理に目覚めて宗教改革を行ったことは特に有名です。信仰によって、義とされるという意味は、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」(ローマ3:23、24)。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:24、25)とあるように、罪の為に神の救いから遠く、滅びに向かって行かなければならなかった者を、キリストの十字架の死と、復活を通して、贖い、永遠の命を与えて下さった。キリストの十字架の死と復活を心に信じ、口で告白する者は、誰でも信仰によって義とされる、神の前に罪と関係ない者、許された者、永遠の命の中に生きる神の民、神の子とされるという事を教えて下さいました。これが福音なのです。これは神の愛の表れです。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は、心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10:9、10)と、はっきりと宣言しています。
救いは行いによるのではなく、信仰によるのです。
そして、信仰と生活(行い)は、バラバラのものではなく、一体です。
罪許され、義とされた者は、神の御心を生きる事ができるはずです。
罪許された者の生き方は、かつての生き方とは違うのです。興味の対象も思考も、生活の優先順位も違ってくるはずです。これは、誰かに強制されるとか、人の目を気にしてとか、そのような人間的な動機によるものではありません。
イエスを信じた時、私たちは心の中にお住まい下さる聖霊によって、聖なる者にされたのです。聖霊は聖い御霊ですから、当然罪を悲しまれます。また、神の御心に添って生きようと決心するなら、助けて下さるお方なのです。
イエスを信じる以前には、まず、自分の事を考えたのではないでしょうか。自分の生活、自分の興味、自分の何々・・・。それは一面、とても大切な事かもしれません。自分で責任をもって生きるというのは人にとって当たり前な事です。しかし、それが神の標準ではないのです。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)とあって、生きるにしても、死ぬにしても、神の栄光を表わす事が生活の目標であり、基準である事を教えています。
当時のローマ教会の中にはいろいろな人がいました。禁欲的な人もいれば、自由な考えを持つ人たちもいました。彼らの考え方の違いの一つが「肉」、食物に関する事でした。当時の礼拝は、愛餐を伴っていました。愛餐も礼拝なのです。当時、市場で売られていた肉は、偶像に備えられたものが下げ渡されて売られていた為に、肉は食べるべきではないと言う人たちもいるし、自由に食べても構わないという人たちもいました。確かに聖書は偶像礼拝を厳しく禁止しています。(Tコリント10:14)しかし、すべては神によって作られたものであり、また、偶像なるものは実在しないので、偶像に備えられた肉を食べても問題ではないとTコリント8:4−8にはあります。一方、偶像に備えられた肉を食べる事は、偶像礼拝に加わることであると主張する人々もいたのです。
それぞれの主張は救いには関係ないのです。救われた後の考え方の違いでした。しかし、これが教会の一致を妨げ、お互いに裁き合い、非難し合っていたことが問題であったのです。
「食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(ローマ14:3)とあります。裁き合う事は何も良い結果を生み出しません。軽蔑や、不信、裁き合う事は、良い実を生み出すことができないのです。それよりも、兄弟の前に躓きとなるようなものを置くなと戒めているのです。「決心しなさい」(14:13)とあります。強い、意思を持ちなさいという事です。
躓くとは、何かに足を取られて転倒するとか、思わない壁にあたってうまく前に進めないといった意味に使われます。どちらにしても前に進んで行けないことを表わします。主イエスを信じた人の信仰の歩み方の秘訣は、人を躓かせない事と同時に、自分が躓かない事ではないでしょうか。人は弱さを持っていますから、躓く事もあります。それは、ちょっとした人の言葉や態度に、あるいは、神の言葉の重さに躓いたり、躓きの種はたくさんあるのです。躓きの原因はどこにあるのでしょうか。自分を正とし、自分を基準とすると、他の人や様々な事が疑問になってくるのです。それはおかしいという事になるわけです。
繰り返し、繰り返し、聖書は、「人を裁くな、侮るな」(ローマ14:10)と教えます。そして、私たちに、私たちは皆、神の裁きの座の前に立つ事を忘れてはならない事を教えています。
@  躓きの原因を置かない事。(14:13)
肉を食べる事が他の兄弟の躓きになるなら、食べない。これは愛の配慮をするということです。躓きになるであろう事をあえてしないと言う事です。他の人に対して、やさしく配慮ができるなら何とすばらしいことでしょう。
A  平和や互いの向上に役立つ事を追い求める。(14:19)
この、平和というのは、「平和にする」という意味です。また、「互いの向上」とは、「建てること」という意味があります。それぞれが霊的な成長を遂げる時、教会の霊的成長につながり、教会を建て上げて行く事は明白です。「追い求める」とは、心にいつもそれを置いて強く求めていくという意味です。いずれにしても、その動機は神の愛をもって愛し合う事です。15節の「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んではいません」という御言葉に、「あなたの生き方について」という言葉を当てはめると意味がよくわかります。クリスチャンは愛に従って歩むことを教えられています。愛は、「自分の利益を求めない」(Tコリント13:4)事です。自分の歩みが他の人の信仰の成長につながるとしたら何とすばらしいことではありませんか。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)。私達は、平和、義、喜びの神の国にすでに入れていただいた者たちです。平和、義、喜びの中に生かされています。躓きの元があっても、躓きません。また、躓かせる事もありません。そのように神は私たちに教えておられるからです。平和は遠くにあるものではありません。平和の神が共におられるのです。主イエスの十字架によって、私たちは罪許され、神の前に義とされているのです。だれも訴えることはできません。神の喜びが心にいつも湧き上がってくるのです。世の中や環境がどのように変わっても、イエス・キリストは永遠に変わる事のないお方です。御言葉も変わる事はありません。救い主を仰ぎ、御言葉に満たされ、日々の歩みが神の栄光と、愛を表わすものであるよう、足元をしっかりと固め、信仰の歩みを進めて参りましょう。




 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ