阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年8月23日
「勝利の主」
ヨハネ16章33節

 主イエスは全世界の人を贖うため、十字架に架かって下さいました。十字架とは、ローマ帝国が考案した、最も酷い死刑の方法です。
罪人を十字に組んだ木にくぎ付けして、そのままにしておくのです。人は残酷な事を考え、実行できる存在です。
ヨハネによる福音書は、12章以下に主の十字架前後の出来事が記されています。13章では、最後の晩餐と呼ばれる席で、弟子たちに親しく教えられました。20章以下には、主の復活の出来事が記されています。
当時ユダヤは、ローマ帝国の属国として、重い税や重圧に苦しんでいました。メシア、救い主を待望していたのですが、約束のメシア、イエスが到来したにも関わらず、信じる事が出来ませんでした。
長い間待ち望んで、実現したのに、受け入れられなかったとは、何と残念な事ではないでしょうか。
救い主が来られた。大変なニュースです。良いニュースです。この方によって誰でも罪許され、永遠の救いを受けられる。これが福音です。この福音を伝える為に弟子たちは、命を懸けたのです。
イエスはこの席上、やがて迫害が起こる事を予告なさいました。
「あなたがたは世に属していない、わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎む」(ヨハネ15:19)と、弟子たちに主イエスは言われました。
主イエスを信じた者は、この世に属しているのではなく、キリストに属している者であると言われているのです。
「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている。」(Tペトロ2:10)
  キリストに属しているという事は、この方の恵みをすべていただけるという事です。
勝利とは、戦いに勝つという意味です。人生には戦いがあるのです。戦いの連続と言って良いかもしれません。
@ 罪との戦いがあります。救われたのだから、罪と関係ないはずなのに、人は罪深いのです。ヤコブの手紙は、すでにイエスを信じた人々にあてた手紙ですが、「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(ヤコブ1:19−21)とあって、クリスチャンでありながら、怒りを抑えられない人がいたようです。聞く事が苦手の人もいたようです。よく聞く人であって、すぐ怒らないようにと諭しています。怒ると、神の義を実現できない、神の栄光にならないと言っているのです。これは、内面の問題であると考えられます。人の心の中の問題です。罪との戦いがあるのです。
A この世との戦いがあります。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」(ローマ12:2)とあります。これは、この世と調子をあわせるなと言う意味です。神の子になったら、当然考え方が神中心となって、この世と合わなくなることがあります。この世より、主イエスに従いたいと願うようになるのです。これは内に住まわれる聖霊の重いです。主イエスが喜ばれるような生き方をしたいと願うようになるのです。この世は、誘うかもしれません。しかし、世も世にある欲も、過ぎ去っていきます。(Tヨハネ2:17)
B 死との戦いがあります。人に100パーセント定まっている事は、生まれたら、必ず死ぬ時が定められているということです。死を免れる方法はないかと、古来、多くの王や権力者たちは不老不死の妙薬を求め続けました。永遠の命への憧れです。また、古代エジプトでミイラが作られ、豪華絢爛な埋葬品と共に葬られるのも、甦りの希望を持っていたからです。中国の西安で見つかった兵馬俑は、秦の始皇帝が自分の死後も生前のように、軍団を持ち、皇帝として、支配者として、変わらぬ生活をしていくという発想で造られたものです。兵馬俑、それは、兵士や軍馬、馬車などの大きな埴輪ですが、一人一人容貌や、衣裳が違い、多くの地域の人々によって皇帝の軍団が構成されていたことがわかります。紀元前250年くらい前の始皇帝は、死後も生き続ける事を夢見て大きな遺構を残しました。このように、人にとって死と永遠の希望というのは避けて通れない課題と言えるのではないでしょうか。
主イエスが最後の晩餐の席上、表わされたのは、弟子たちを極みまで愛しているという事でした。極限の愛です。主イエスの愛は、神の愛です。神が弟子たちを、また、全ての人を愛しておられるという事です。「神は愛」(Tヨハネ4:16)なのです。多くの権力者は、不死を求めましたが、得られませんでした。しかし、神は、御子によって、永遠の命の道を示して下さいました。それは、神の愛の表れです。
御子がこの世に遣わされたのは、人の救いの為、永遠の命を与える為でした。真の罪の清算、死の解決を与える為です。
それは、罪の為に神との関係が絶たれていた人間に、神の方から救いの橋をかけるという方法でした。神の御子をこの世に遣わし、十字架によって全世界の罪の贖いを成し遂げるという方法です。この方法によってのみ、救いと命が与えられるのです。
旧約時代には、罪の贖いの為には雄山羊や、雄牛が身代わりとしてささげられました。贖罪の献げものとよばれて、祭司がそれを屠って贖いとしたのです。罪には代償が必要でした。エルサレムの神殿には、聖所と至聖所という部屋があって、通常祭司たちは聖所で神に祈りをささげました。至聖所には一年に一度だけ大祭司だけが入るのですが、その為には、自分自身と、人々の罪の贖いの為の血を必ず携えなければなりませんでした。それは、そのたびごとに繰り返して行わなければならなかったのです。しかし、主イエスは、「恵みの大祭司」として、ご自身の十字架の血によって永遠の贖いを成し遂げられたのです。繰り返す必要はありません。たった一度だけです。「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ10:10)
  罪の許しと永遠の命は、イエス・キリストの十字架の贖いによって無償でいただく事ができました。古代の多くの権力者が夢見て、莫大な金銀と使役で得ようとした永遠の命を、私たちはすでに得る事ができたのです。
  イエス・キリストの十字架は敗北ではなく勝利でした。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:3−5)
 十字架によって、全世界の贖いを全うし、神との和解が実現し、罪が赦され、永遠の命が実現されたのです。十字架の大勝利なのです。
 主イエスは贖いを成し遂げられてから、復活され、天に変えられて、「神の右」に坐しておられます。力と権威の座です。この方が私たちを守り、力を与え、慰め、立ち上がらせて下さるのです。
勝利の主を信じる者は、主にあって常にすべてに勝利する事が出来る。これが信仰であり、生きる力です。主イエスを崇めましょう。勝利を感謝しましょう。

「しかし、キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもがご自分の足台になってしまうまで、待ち続けておられるのです。」
(ヘブライ10:12−13)




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