阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年8月30日
「感謝の心」
ルカ17章11―19節

 聖書は、神の言葉です。神が私達一人一人に語りかけて下さっています。私達は日々、この神の言葉によって新しい命に生きるのです。
主イエスは、「わたしはぶどうの木。あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)と言われました。私達は、どのようにして主イエスとつながっているのでしょうか。十字架の贖い、罪の赦し、救いを受けた者は、すでに主と命で繋がれています。そして、その命は御言葉によって維持されるのです。
先週は、私達には多くの戦いがあるが、主は既に勝利された。私たちも主にあって勝利であると、お話ししました。勝利の一週間だったでしょうか。勝利とは、どれだけ主イエスと繋がり、御心のように生きたか、という事であると思います。
聖書は、常に喜ぶこと、感謝する事、祈る事を教えています。
詩編67編の御言葉には、「神よ、すべての民が あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって あなたに感謝をささげますように」(詩67:4、6)とあります。すべての民がこぞって主に感謝をささげるようにという祈りです。こぞってとは、「諸人こぞりてむかえまつれ」というクリスマスの讃美歌にあるように、「すべての人が全員で」という意味です。主イエスが来られた事を、全ての民が一人も残らず全員で迎え、ほめたたえよう、感謝しようという意味になるのです。
感謝の心を持つ人は、幸いです。心にいつも不満や恐れを持つ人には、平安がありません。
人には、絶望的と思われる事がたびたびあります。この先、希望がない、解決の方法がないという事態です。きょう、お読みした重い皮膚病を患っていた、10人の人々もそうであったと思います。
その病気のために社会生活が赦されなかったのです。宗教的な意味では、これは人が定めたことですが、「神に呪われた者」と断定されて、墓場のような所で、死んだ者のように生きなければなりませんでした。この、聖書にある、重い皮膚病とは、ハンセン氏病かもしれないし、そうでないかもしれないので、「重い皮膚病」と新共同訳聖書では訳されています。現在では、特効薬によってハンセン氏病は根絶に近くなっていますが、日本でも、らい予防法という法律が、1907年に制定されて、1996年まで施行(しこう)されていました。ハンセン氏病の患者さんは、施設に強制的に隔離されなければなりませんでした。悲劇です。家族に類が及ばないように、名前まで変えて、治療がすすみ、完治しても、終生故郷には戻れない事があったのです。
神に捨てられたと思い、人に捨てられ、病気と闘いながら、なお生きていかなければならない人々でした。特効薬と治療法、研究が進んだ現代と、2000年前では、治療の方法はくらべものにはなりませんが、心の中は共通するのではないでしょうか。普通に暮らしたい、家族と共にいたい、神殿で神を礼拝したい、社会に受け入れられたいという、当たり前の事が出来ないでいたのです。
主イエスはエルサレムに向かわれる途中、10人の患者と会われました。「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている10人の人が出迎え」(ルカ17:11)とあるので、彼らは主イエスが通られるのをどこかで耳にし、待っていたようです。彼らは、絶望的な日々を送っていた中で、一筋の光を見ました。イエスがお通りになる。この方なら私たちを救ってくださるのではないか。期待をして、また、勇気をもって村までやってきたのです。重い皮膚病の人々は、人中にでた時は、声をあげて人を避けなければなりませんでした。「わたしは、病気です。汚れています」と大声で叫ばなければならなかったのです。主イエスが来られた時も、遠くに立ったまま「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(17:13)と、声を張り上げました。大きな声でなければ届かない程、遠くにいたのです。主イエスは、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。律法では、祭司が体を見て、癒されている事を確認すれば、社会復帰できたのです。
彼らは、すぐにエルサレムに向かって歩き始めました。そして、途中で自分の体が清められている事に気付いたのです。惨(むご)たらしく崩れている手足や顔、体、指、それがまったく普通の皮膚に戻っている。先ほどまでと違う体になっている事に気付きました。まったく新しい体にされたのです。旧約聖書、U列王5章に登場するナアマン将軍は、ヨルダン川に七回身を静めて癒されました。しかし、彼らは、主イエスの御声をもって癒されました。10人とも癒されたのですが、その内の一人は自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら主イエスの元に戻って来ました。そして、主の前にひれ伏して感謝したのです。主イエスは、「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」(17:17、18)と言われました。10人が癒されたのです。10人とも、先ほどまで、希望のない、生きていながらも、死んだ者のように暮らしていたのです。
今日から新しい人生が始まります。社会復帰できるし、家族の元に帰れる。礼拝もできる。なんと嬉しい事ではありませんか。
早く祭司に見せなければという思いがあったに違いありません。
自分の祈りが、願いがかなう事は嬉しい事です。重大なことであればあるほど、その嬉しさは格別だと思います。神は祈りに応えて下さいます。憐れみの御手を差し伸べて下さる方です。
さて、祈りが聞かれたその後、私たちはどうしているでしょうか。癒された、許された、救われた、道が開かれた、など、さまざまな事に神は応えてくださっています。私達はこの世の利益、それは、御利益(ごりやく)とも呼ばれるものですが、それしか求められない信仰であってはならないのです。9人と1人は、それぞれ癒していただけるという信仰を持っていました。主イエスは解決して下さる、主イエスは答だという事です。しかし、それがかなえられた後、9人は主の元には帰りませんでした。願いがかなったなら、どなたが助けて下さったのかはもう考えない。ただ自分の先々の事にのみ、心が向いているという事なのです。
これは、本当に主イエスにつながっているとは考える事ができません。サマリヤ人は、主イエスの元に帰ってきて、平伏して(ひれふして)感謝をささげたのです。主は、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、御声をかけてくださいました。
栄光を神にお返しするという事を、心にしっかりと留めなければなりません。感謝するということは、神に栄光をお返しするということです。「あなたがして下さったこのすばらしい事を、心から感謝します。あなたのみ名がほめたたえられますように」、これが感謝です。
感謝があふれると、自然に賛美します。心からの賛美です。神は人に歌う機能を備えられました。動物は歌う事が出来ません。作曲もできないでしょう。人は、神をほめたたえるために歌う、神に感謝するために歌うのではないのでしょうか。
私達は、生活の中で、十字架によって罪を贖い、永遠の命を与え、祈りに応えて下さる神にどのように感謝ささげているでしょうか。どのように賛美をささげているでしょうか。祈りが聞かれたら、平然と主イエスの元から立ち去っていくような事はないでしょうか。
主イエスに繋がり続けなくてはなりません。祈りによって、御言葉によって繋がり続けるのです。命に溢れ、恵みに溢れ、感謝に溢れて生きる時、それが周囲の人々への証しとなるのです。
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)





 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ