阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年9月6日
「天の国に招かれたら」
マタイ22章1−19節

 主イエスは天の国について、様々な譬えで教えて下さいました。
20章では、ぶどう園で働く労働者の例え話で、天の国を示されました。マタイによる福音書では、神の国について、天の国という言い方が多くされています。国というのは、その国の王が治める所という意味なので、どちらも、神のご支配される所という意味になります。主は、神のご支配される所について、また、神のご支配に入るには、といった事を譬えでお教えになったのです。ぶどう園の労働者の譬えは、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)という事を示されました。頑なで救い主を受け入れないユダヤ人より、異邦人の救いが先になってしまうという事です。
主イエスは、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(22:2)とお話になりました。王が王子の為に結婚披露宴を開いたのです。当時の結婚式は、今とは全く違う習慣がありました。まず、あらかじめ客を招待しますが、時刻は知らせていません。準備がすべて整うと、再び召使を送って案内したのです。しかし、あらかじめ招いていた客は、皆招待を断ってしまいました。王の招きの言葉は謙遜に満ちています。「すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」(:4)王が、「さあ、おいでください」と丁寧に招いているのです。招かれていた人々の態度はどうだったでしょうか。「無視」した(:5)とあるのです。無視したまま畑に行ったり、商売に出かけたり、あるいは、王の家来たちに乱暴して、殺してしまったという大変な事になってしまいました。7節には過激ともいうべき表現があります。マタイによる福音書は紀元80年頃完成しました。紀元70年には、エルサレムはローマによって、打ち砕かれ、陥落しているのです。著者であるマタイは、エルサレムの惨憺(さんたん)たる様子を実際に見ていました。マタイは、主イエスの語られた例え話を書きながら、もし、ユダヤがイエスをキリストと信じ、受け入れていたなら、ローマとの和解の道を探り、このような徹底的な破壊は免れたのではないかと思ったに違いありません。
さて、結婚披露宴は、当事者にとっては、一生一度の人生の大きな喜びの時です。王は喜びを分かち合うために人々を招いたのです。
王の招きを拒んだ理由は何だったのでしょうか。自分の畑に行った、商売に行った、これは別に悪い事をしているわけではありません。しかし、人は、その日その日の事しか頭になく、永遠について考えない事があるのです。目に見えるもの、この世のこと、生活のことをまず考えてしまうのではないでしょうか。
王の招きは、その他の事と比べる事ができない、絶対的な価値のあるものであって、捨ててはならないものでした。一番大切な事を、二番目に大切な事のために捨ててしまったのです。王は、招待していた者たちが来なかったので、「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」と、家来たちに命じました。家来たちは通りに出かけて誰でも連れて来ました。通りとは、大きな道の交差点を意味し、人が行きかう所です。そこで思いもよらない王の招待に応じて、善人も悪人も集まったので、客で一杯になりました。その人がどのような人であるかは問題ではなく、ただ招待に応じて宴席に連なることが重要だったのです。
11節には、王が集まって来た客を見ようとして、宴席に入って来た時の事が記されています。礼服を着ていない人が一人いました。当時、王の宴席に連なる時には、それにふさわしい礼服を着なければなりませんでした。しかし、その礼服は、王が備えてくれるものだったのです。旧約時代から、宮殿に出入りする者や、王に召された者には、王が礼服を与えるという習慣がありました。ヤコブの子ヨセフは、あまりに父親がヨセフを可愛がり、ヨセフもやがて家族が皆、自分にひれ伏す夢を見たなどと言うので、兄たちの怒りと嫉妬をかい、エジプトに売られてしまいました。エジプトでも試練の連続でした。ポティファルというエジプトの高官の家の僕となり、信頼され、財産をすべて管理させられるほどの働きをしていたのですが、その妻の悪意によって投獄されてしまいました。しかし、ヨセフが夢を解く力を神によって与えられている事から出獄し、その時には、王からの服によって身なりを整えて、王の前にでました。彼はやがてエジプトを飢饉から救い、宰相として用いられ、イスラエルから家族がやって来て再会し、夢がまことになるのです。
マタイに戻りますが、一人だけなぜ礼服を着なかったのでしょうか。王は、彼を友と呼びかけます。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか。」王が友と呼びかけているのです。普通なら、かしこまってお答えするのではないでしょうか。しかし、黙っているだけで返事はありませんでした。王に対する敬意はない事、それは、あえて礼服を着けようとはしなかったという、意志をもった拒絶を表わしています。
王は、敵対し、拒絶する者に対しても、友と呼びかけているのです。ここで、何が必要だったのでしょうか。自分の頑なさと、王にたいする不敬を詫び、悔い改めて王の礼服を身に付けますという事ではないでしょうか。充分悔い改めの時は与えられていました。猶予があったのです。しかし、彼はそのようにはしませんでした。人の罪の深さを表わしています。
神は愛です。キリストによって、永遠の救いを提示されています。
今はどのような時代でしょうか。聖書によれば、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリント6:2)とあります。今は、恵みによって、信仰によって、誰でも救われ、永遠の命を頂けるという、すばらしい時なのです。
王の家来たちは、王に遣わされて人々に呼びかけました。宮殿に来てください。王の宴会に来てくださいと呼びかけたのです。王の元にあるのは、言葉に言い表す事のできない喜びでした。自分の功績や、経歴にまったく関係なく、ただ王から一方的に与えられる祝福だけだったのです。
主イエスは、この例え話の結論として、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(22:14)と言われました。備えられた祝福に預かれたのは、招かれて応じた者、そして、王の礼服を着た者でした。私達も、かつて王である主イエスの招きに応じて救われました。救われた者は王の礼服を身に着けるべきなのです。
主イエスは、十字架によって全ての人、全世界の罪の贖いを成し遂げて下さいました。十字架の血によって、私たちは聖くされました。御言葉には、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26、27)とあります。キリストご自身を着ているとあるのです。
キリストの贖いを受けた者は、聖なるキリストを着ている者なのです。キリストを着る為には、古い自分を脱ぎ捨てなければなりません。不信仰や、地上のもののみに心惹かれる事、それは、王の着物をつけたくないという事に繋がります。
神が下さるのは、良い物だけです。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ8:6)
神が提供して下さっている、祝福、永遠の命、平安はキリストによってのみいただけるのです。そして、すでにそれをいただいている私たちも、王の招きを告げ知らせる足として用いていただきたいのです。招きに応じる者たちは少ないかもしれません。しかし、王は招待し続けてくださるのです。祝福に預かれるように、命に至るように、招き続けておられる方を伝える者として、用いていただく事は何と幸いなことでしょうか。
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを  着ているからです。」(ガラテヤ3:27)




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