阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年9月13日
「ともし火をととのえて」
マタイ25章1―13節

 主イエスは、天の国について十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿をむかえるという譬えをもって教えてくださいました。
先週に引き続き、天の国とはどのような国かを、また、どのように入れていただけるのかを教えられたのです。花婿の来るのが遅れたので、10人とも皆眠ってしまったと、5節にはあります。花婿がなかなか来ないので、おとめたちは待ち疲れて皆眠り込んでしまいました。そして、真夜中になって、「花婿だ。迎えに出なさい」という声がしたのです。
ユダヤの婚礼について、興味深い事を述べた人がいます。
ある人が、現代のガリラヤの町で、10人の女性が着飾って踊りながら進んでいくのに出くわしました。あの人たちは一体何をしているのかと、ガイドに尋ねると、彼女たちは花嫁の付添人で、花婿が来るまで、花嫁に付き添うのだと説明しました。「結婚式はいつか」と、尋ねると、「今日か、明日か、一週間先か、二週間先かわからない、その時間はわからない」と答えたのです。ユダヤの伝統的な結婚式と、それに続く一週間続く祝宴のため、花婿が花嫁の付添いが眠っている時、不意に来る事があるのです。しかし、その時は、先触れを送って、「花婿が来た」と告げなければなりませんでした。花嫁の付添は、準備していて、いつでも花婿を迎えなければならず、時間に遅れると祝宴の部屋には入れないという習慣が、現在でも伝統的な結婚式ではあるのです。私達にとっては分かりにくい習慣です。
10人のおとめが、それぞれともし火をととのえて、やがてやって来る花婿を迎える。彼女たちは、花嫁の付添人です。主イエスによれば、5人は賢く、5人は愚かだったとあります。賢いおとめたちは、花婿がいつ来るかわからないので、ともし火と同時に油も用意していました。しかし、愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油は用意していなかったのです。真夜中になって、皆眠り込んでしまった時、花婿到着の声が聞こえました。「花婿だ、迎えにでなさい」。彼女たちの役目は、まさにこの時のためでした。ところが、油を用意していなかったおとめたちのともし火は消えそうになっていました。油が尽きかけていたのです。しかし、賢いおとめたちは油を用意していました。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」と言いましたが、「分けてあげるほどはありません。」と、断られてしまいました。油を店に買いに行っている間に花婿が到着し、祝宴の戸は閉められてしまい、中に入ることができませんでした。
  何が良くて、何が悪かったのでしょうか。10人のおとめたちは、皆眠り込んでいたのです。同じです。そして、10人とも、今までの習慣と経験から、花婿はいつ来るかわからないという事は知っていたはずです。結婚式に招かれた事があったかもしれないし、付添人になったことがあったかもしれない。両親や、年上の人たちから習慣について教えられていたでしょう。知っていたはずなのです。なぜ、5人は油を用意しなかったのでしょうか。花婿は、きっと油が尽きないうちに来るだろうと考えたか、教えられている事について無頓着であったということではないでしょうか。当然備えておかなければならなかったものを備えなかったという、怠惰(たいだ)と、無頓着(むとんちゃく)ということになります。
@ 私たちは、最後になってからでは間に合わない事があるという事に、気がつかなければなりません。もし、明日までに美しい刺繍を仕上げなければならないという約束があったら、今日から始めても間に合わないのです。一針一針刺していくのに、どれほど時間がかかるか。完成するには1か月?3か月?と計算して、用意しなければならないのです。毎日毎日努力し、時間をかけてやっと完成するものがあるのです。
A 人から借りる事ができないものがあるのです。本当に大切なも  
のは人から借りる事ができません。命は借りる事が出来ますか?「私の寿命が尽きかけています。あなたは若いから寿命が長いでしょう。貸して下さい。」といってもできません。貸し借りはできないのです。主イエスとの関係もそうです。その関係は人によるものではありません。キリストと一対一の関係です。キリストは、あなたのために十字架にかかり、命を捨てて下さった。キリストを信じる信仰は他の人に依存するものではありません。主イエスを信じた時、その人の内に主イエスは聖霊として内住して下さいます。キリストの力と品性を宿らせるのです。それは、他の人から借りる事はできません。主イエスを宿す人は信仰の実を結びます。信仰も人から借りる事はできないのです。主イエス・キリストをしっかり心の中心にお迎えし、その御言葉に日々従い続けるなら、油を切らす事はありません。花婿が来られた時、あわてる事なく、ともし火をととのえ、「お待ちしていました」とお迎えする事ができるのです。
さて、このたとえ話について、主イエスは、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイ25:13)と言われました。
これは、主イエスが、再び来られる時の心構えを教えておられると考える事ができます。主は、「その日、その時は、だれも知らない。」(マタイ24:36)「人の子は思いがけない時にくるからである」(24:44)「そのしもべの主人は思いがけない時に帰って来て、・・・」(24:50)と教えておられます。
現在は、「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(Uコリント6:2)です。主イエスをキリストと信じ、受け入れる者は誰でも救われ、永遠の命をいただけるのです。その、恵みの時、救いの日とは、主イエスが降誕された時から、再び来られる再臨の日までを表わしています。初臨から再臨までの間に私たちは生かされているのです。

主イエスは、十字架の直前、最後の食事の席で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行って
あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしの元に迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:1−3)と言われました。場所を備えたら、あなたがたをわたしの元に迎える。あなた方はわたしの所にいるのだと言われたのです。また、使徒1章にも、主イエスが昇天された時、天使が再臨を予告しています。「・・・イエスは、天に行かれたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)
主が再び来られて信じる者すべてを御許にお迎えになるという約束が、信じる者にとっての最終的な希望であり、信仰であり、完成の時なのです。
何時来られるかわからない。遅いと思って、怠けていたり、不信仰になっていると、突然来られると聖書にはあるのです。聖書の言葉は真実です。私達は、心をととのえ、本当に大切な事をわきまえて生きなければなりません。
愛を実践しながら、しっかりと信仰をもって日々なすべきことをなす。これが主を待ち望む者の姿勢であり、油を用意することになるのではないでしょうか。
初代教会時代の信者の祈りは、「マラナ・タ」という祈りでした。これは、「主よ、来てください」という意味です。主イエスをお迎えする準備はできております。どうぞおいでくださいと、祈ったのです。信仰の自覚の確認ともいえるでしょう。わたしたちも、「主よ、来てください」と、心からの祈りをささげて行く毎日でありたいと思います。




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