阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年9月20日
「永遠の命の喜び」
ヨハネ6章40―51節

 きょうは、お集まりの皆様と共に、先に天に帰られた、愛する家族を記念して、礼拝をささげられる事を感謝致します。
キリストを信じる者たちは、遺影を拝んだり、礼拝する事はありません。しかし、それは個人を蔑ろ(ないがしろ)にするとか忘れ去るとかということではありません。
私達の礼拝の対象は、天地を造られた真の神であり、賛美もそのお方にささげます。記念するという事は、忘れないという事です。あなたを、あなたのことばを、あなたと共に過ごした日々を忘れませんという事です。その生前の生き方から、今生きている私たちは多くの事を教えられました。決して忘れることなくこれからも地上での日々を過ごしていきますという、決心の時なのです。
人は限りある存在です。不確かなこの世で、確実なことは、人は生まれたら必ず死ぬという事です。日本人の平均寿命は年々長くなり、男性が80歳、女性が86歳だそうです。男女とも80歳を超えました。大変喜ばしい事です。江戸時代や、明治時代は、40歳代、昭和20年代になっても50歳代ですから、今は大変長生きになってきているわけです。現代でも、平均寿命は60歳代という国もあります。しかし、いくら平均寿命が長くなっても、やがて死を迎えるという事に変わりはありません。
人はなぜ死ぬのだろうかという疑問は、誰しもが持つものではないでしょうか。その答えは聖書にあります。エデンの園という名は皆が知るところです。神がお造りなった完璧な場所でした。最初の人間はアダム、彼の名はアダマ(土)という意味があります。神が地の塵(ちり)から彼を創造されたからです。そして、生きるものすべてを治めるようにされました。さらに、神は助け手として、彼のあばら骨の一部をとって、エバを創造されたのです。彼らは神と共にエデンで完全に幸せな生活をしていました。しかし、ある時、サタンがエバを誘惑しました。決して食べてはならないと神から命じられていた善悪の知識の木の実を食べ、夫にも食べさせた時から、神と顔を合わせることができなくなりました。神が近づかれた時、隠れなければならなかったのです。そして、神に背いた罪で、エデンを追放されたのです。この時、罪が人の世に入り、死が入りました。原罪を持つ者になったのです。神との断絶という魂の死が入ってしまったのです。罪の結果が死なのです。人は死ぬ存在となってしまいました。
「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)罪の結果、死が人類に入ったのです。しかし、神は救いの道を備えて下さいました。神は、神との関係が絶たれてしまった人を救うというご計画をたてられました。やがて神は、その一人子を世に遣わされ、全人類の罪の贖いを成し遂げてくださいました。十字架の贖いです。アダムから罪が入りました。そして、神の御子イエス・キリストにより罪の贖いがなされ、神との和解が成し遂げられました。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(Tコリント15:22)これが、福音、良いニュースです。
神は、心の罪を問われます。心の中にあるものが外側に現れる時、犯罪につながるかもしれません。聖書の教える罪とは、心の中の罪です。「ハマルティア」(的外れ)と教えています。英語では
SINという言葉になります。使徒パウロは、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(ローマ7:19)と記しました。罪が内在していると告白しているのです。生まれながらに罪を持った人が救われる唯一の方法は、イエス・キリストを信じ受け入れる事です。罪が生み出すものに良いものはありません。憎しみや、敵対、欲、妬み、不和、さらにいろいろあると思いますが、すべて自己中心から発生するものなのです。聖書は、これらの罪をもったままでは、「ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(ガラテヤ5:21)と言っています。聖書のみ言葉は真理の言葉です。自分で勝手に都合よく考えるものではありません。神の国を受け継ぐことはできないとあるなら、そのとおりです。そして、その逆もそのとおりです。どのようにして、神の国に入るのか。それを神はキリストによって教えてくださいました。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ39、40)と、主イエスは語られたのです。44節でも、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」、47節では「信じる者は、永遠の命を得ている」と言われました。父なる神の御心は、主イエスを信じる者の永遠の命、即ち復活の命を得ることだと宣言されたのです。私達は、主イエスが再び来られて、信じる者を迎えて下さる事を信じます。Tテサロニケ4章には、その光景が生き生きと語られています。大天使の合図の声と、神のラッパが鳴り響き、主イエスが天から来られます。そして、先に眠った人が最初に復活し、それから、今生きている者が空中で主と出会うのです。そして、主といつまでも共にいることになるのです。これを携挙(けいきょ)といいます。そして、千年王国を経て、最後の審判の時がくるのです。命の書に名が記されている者は幸いです。
その日は、主を信じる者にとっては、慰めであり、最終的な勝利の時です。先週「マラナ・タ」、「主よ、来てください」という言葉が、初代教会時代のクリスチャンの祈りであったと、お話ししました。その祈りは、今も変わらないのではないでしょうか。「主よ、来てください。準備はできています。」という祈りです。
ユダヤ人たちは、主イエスが「わたしは天から降って(くだって)来たパンである」と言われても、理解できませんでした。「ヨセフの息子で、その父も母も知っている」と言いました。主イエスは、大工ヨセフの子であって、何者でもない。そのイエスがどうして、「天から降ったパン」などど言うのか、わからなかったのです。というより、分かろうとしなかったと言うのが正解かもしれません。ここに、救いがあるのに、受け入れようとしない人の姿です。人にとって、一番大切なのは、命です。買う事も借りることもできません。しかし、今、その命が無償で与えられようとしています。「命のパン、天から降ったパン」であると言われた、イエスキリストを信じる者は、「永遠の命を得る、得ている」のです。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしはいのちのパンである。・・・天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。・・・このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:47−50)永遠に生きるのです。今日、記念した方々は、今地上にはおられません。しかし、体は死にましたが、永遠の命に生きているのです。今年はハリエットさんが召されて、もう一度お会いしたかったと、残念でした。しかし、今生きている私たちも、同じ永遠の命に生かされているのです。やがて、キリストの日に再会できるのです。家族に、信仰の先輩たちに、友人に、キリストにある、すべての兄姉に又会えるという希望があります。終わってしまったのではありません。最愛の家族を失われた方が、「これで天国が近くなりました」と言われました。最愛の者がそこにいると思うと、心がいつもそこにあるのです。やがて私もそこで愛する者に会う。それだけではなく、主イエスにお会いする事ができるのです。死は別れであり、悲しい時です。しかし、これですべてが終わったという状況ではないのです。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。家族との再会を望みつつ日々主と共に永遠を歩みましょう。




 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ