阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年9月27日
「あなたこそ私の神」
ヨハネ20章19―29節

  きょうも、礼拝をおささげ出来る幸いを感謝致します。クリスチャンが日曜日に礼拝をささげるようになってから、2000余りの年月が経ちました。十字架で全人類の贖いを成し遂げられた主イエスが誕生された年を紀元として、現在、世界でその暦が使われているのです。キリストの誕生を中心にBC(キリスト以前)AD(キリスト以後)という事はご存じと思います。それは、また、旧約時代と、新約時代に分かれた事を意味します。律法によっては、罪の自覚が増すばかりで、義とされる事はないという時代から、キリストを信じる者は、恵みにより、信仰により、誰でも分け隔てなく救われるという恵みの時代を迎えたのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリント6:2)です。
今、この時代は、救いの戸が大きく開かれています。それは、イエス・キリストという門です。主イエスは、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(ヨハネ10:9)と、言われました。門を通るとは、イエスが救い主である事を信じて、心の中にお迎えするという意味です
人がこの世に生を受け、やがて召されていく時までを、人生と言いますが、人生とは、嬉しい事や、楽しい事だけではなく、苦しい事や悲しい事がたくさんあります。もしかしたら苦しみの方が多いかもしれません。何事も思い通りにいかなかったり、様々な不安を抱えて生きて行かなければなりません。人は、心を強くもたなければ押し流されてしまうような厳しい社会で生きて行くのです。
その中でどのような慰めが与えられているのでしょうか。
主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われました。誰でも、わたしのもとに来なさいといわれたのです。これは、体が疲れると同時に、心が疲れた者という意味になります。心が疲れたら、人は安息を求めます。体を休め、心を休めるのが安息です。しかし、間違った安息方法を求めると大変な結果になります。例えば、ギャンブルや、薬物などを求めると、破滅に向かってしまうかもしれません。安息どころか自分を不幸にし、人を不幸にしてしまう可能性が大きいのです。
今日のテキストは、主イエスが十字架に架かり、死なれて三日目に甦られてからの出来事の個所です。主イエスは、弟子たちに十字架の死と復活の予告を幾度となくされましたが、弟子たちはその意味が理解できませんでした。マタイによる福音書16章21節以下には、「主イエスがご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロは、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16:21−22)と言ったのです。「イエス様、何を言われるのですか。そんな事があってはなりません。」ペトロが主イエスにこのように言ったのは、主イエスを深く愛していたので、そのような悲劇が待ち受けている事を信じたくなかったからです。しかし、主は、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と、叱責されたのでした。もし、主イエスが十字架への道を歩まれなかったら、罪の解決はありませんでした。人の救いもありませんでした。永遠の命の希望もなかったのです。主イエスは、ゲッセマネの園で血の汗を滴らせて祈り、「御心がなるように」と、十字架へと歩まれました。イザヤ書の預言にあるように、黙して屠り場に引かれていく羊のようにゴルゴタへと進まれたのです。
罪を持つ者が罪の贖いをすることはできません。罪のない神の子であるイエスが十字架に架かられて罪の解決をして下さいました。
そして、事実主は甦られたのです。
主が復活された日曜日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたとあります。主が捕らわれ、十字架に架けられたように、自分達も逮捕されて死刑になるのではないかという恐怖から、鍵をかけていたのです。ところが、そこに来られたのは、恐ろしい捕縛者ではなく、主イエスだったのです。イエスは、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)と挨拶されました。恐怖で一杯の弟子たちに、「平和があるように」といわれたのでした。これは、「神があなたがたにあらゆる良い物をくださるように」という意味の挨拶です。Uコリント9章8節には、「神は、あなたがたがいつもすべてのものに十分で、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできなります」という御言葉があります。神は、信じる者に、十分な恵みをお与えになるお方なのです。弟子たちは恐怖から喜びに変えられました。主イエスは、手とわきばらをお見せになって。確かに復活されたことを示されました。
そこで、主は弟子たちに、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。・・・聖霊を受けなさい。と言告げられ、また、罪を赦すことについて語られました。これは難しいお言葉です。人には人の罪を赦す権威はありません。しかし、罪を赦す事がおできなる方について知らせる事が出来るのです。主イエスを求め、罪の赦しを求めている人に対して、「主はあなたの罪を赦されました」と宣言する事ができるのです。主のメッセージの救いの使者となれるのです。逆に悔い改めがない人には、当然主の赦しはない事も事実です。さて、その場にトマスだけがいませんでした。彼は疑い深いと言われる弟子です。主が十字架に架けられたことをあまりにも悲しみ、悲しみを皆と分かち合えなかったかもしれません。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、主の手の釘跡を見、自分の指を釘跡にいれてみなければ、脇腹にこの手を入れてみなければ、「私は決して信じない」と言ったのです。見て、触れて確認できなければ信じないと言ったのです。
八日後に、主イエスは再び弟子たちの元に来てくださいました。この時は、トマスも一緒にいました。そして主は、トマスにトマスが八日前に語った言葉をそのまま繰り返されました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手をわたしのわきばらに入れなさい。…信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20:27)と言われました。トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と主にお答えしました。主は、「わたしを見たので信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言われたのです。
人は、見て触って確認したいという心をだれでも持っています。
見ていないものをどうして信じる事ができるでしょうか。どうして私たちは、主イエスが真の神であると信じる事ができるのでしょうか。それは、神の霊、聖霊によって、イエスは主と告白できるのです。「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であるとは言えないのです」(Tコリント12:3)。また、Tペトロ1章には、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、信仰の実りとして、魂の救いを受けているからです」とあります。私達も同じ状態ではないでしょうか。私達も主イエスをこの目でまだ見ていない。しかしやがて、顔と顔を合わせて合間(あいま)見(み)ゆる事が約束されています。
「あなたこそわたしの神」と、主イエスに告白しようではありませんか。日々従う時、この世でのすべての事が祝福となるのです。すべてが喜びに変えられていくのです、苦難の時に賛美をささげる者となるのです。真の神が共に常に共にいて下さる事を感謝し、全てに勝利できる喜びを感謝しましょう。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」
(Tコリント2:9)



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