阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年10月4日
「罪人を招くために来た」
ルカ5章27−32節
今年も10月に入りました。残すところ3ヶ月です。月日が過ぎ去って行きます。一日が終わるのが何と早い事でしょうか。これからは日の暮れがもっと早くなって、すぐに暗くなります。主イエスは、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのかわからない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12:35−36)と言われました。まことの光である主イエスを、今、信じなさいと言われているのです。
聖書には、光のあるうちに光を信じた人々が大勢登場しています。
主イエスは、レビという徴税人が収税所に座っているのをご覧になりました。「わたしに従いなさい」と、声をかけると、レビは「何もかも捨てて立ち上がり」、イエスに従ったのです。
レビとは、マタイの事です。レビはユダヤ名ですが、マタイはギリシャ名で、英語では「マシュー」と言います。マタイは、主イエスの召しに従い使徒となりましたが、この時いったい誰がマタイの今後を想像したでしょうか。皆さんご承知の通り、この時代の徴税人は全てのユダヤ人から嫌われていました。それは、ローマ帝国の手先として同胞から税金を取り立てるだけでなく、不正な取り立てで私腹を肥やしていたからです。ユダヤの律法では取税人は神殿に入る事が出来ない規定になっていました。徴税人は裁判の時、証人になれませんでした。うそつきということです。強盗や、盗賊、殺人者と同類とされていたのです。マタイは、経済的には安定していたかもしれませんが、同胞からは忌み嫌われ、差別され、心の中では苦しい葛藤を覚えなければなりませんでした。
人生の転機は、突然やってきます。主イエスがマタイに、「わたしに従いなさい」と言われました。マタイもイエスの事を聞いていたことでしょう。不思議な御業を行われる方である、人々を癒し、神の国について、権威ある者として教えておられる、等々、耳にしていたにちがいありません。彼は徴税所に座っていたのです。通る人から通行税や物品税などを徴収していたのです。しかし、今日、イエスが来られて自分を招かれた。その時、「何もかも捨てて立ち上がった」のです。座ったままでいたなら、昨日と同じ生活が続いたでしょう。相変わらず徴税人としての生活です。人生の一大転換の時がきたのです。
マタイは、自分の家で主イエスのために盛大な宴会を催しました。
そこに招かれたのは、徴税人や罪人でした。マタイと同類と見なされていて、自分を正しい人間だと思っているユダヤ人からは、爪はじきされている人々ばかりでした。
彼らは主イエスと一緒に席に着く事ができました。主は彼らを受け入れ、共に食事をされたのです。それに対して、異議を唱えたのは、ファリサイ派の人々や、律法学者たちでした。イエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり、食べたりするのか」と尋ねました。彼らには到底理解できないことであったからです。
彼らは、取税人には着ている服にも触れさせることはありませんでした。徴税人たちは、汚れている者、救いから遠い人々、軽蔑の対象と蔑んでいたのです。
主イエスは、それに対して、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)と言われました。
ファリサイ派とは、「分離派」という意味で、律法を守らない人達や、普通の人々から自分たちは分離しているという意味で名乗っていたようです。彼らはことごとく主イエスに反発し、主イエスを、神を冒涜する者として、何とかして排除しようとした人々です。
主イエスは、優しい方ですが、ファリサイ派に対しては厳しいお言葉を投げかけています。ファリサイ派の人から食事の招待をお受けになった時、主は食事の前に身を清める事をなさいませんでした。不審に思った彼らに主イエスは、「実にあなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。」と、外側だけととのえて、人々に律法を守る事を教えても、内側は偽善で一杯になっていて、神への愛を忘れ、おろそかにしている事を指摘なさいました。(ルカ11:37以下)。律法で一番大切な教えは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ10:27)です。神と人を愛することが律法のすべてであり、神の御心なのですが、ファリサイ派の人々は見事にずれてしまって、人々を無意味に苦しめるような結果になってしまっていたのです。安息日だから癒してはいけない。安息日だから何をしてはいけない、これをしてはいけないと人々を縛ってしまいました。安息日は、まず神を礼拝し、礼拝する事によって魂と体を休息させるために神が定められた大切な日なのです。
主は、「医者を必要とするのは病人である」と言われました。本当にそのとおりです。私は、廣瀬牧師の難しい手術の前後から、病院にいく機会が大変増えました。手術をした阪大病院も、今度新しく建てられた県立病院も、患者さんで溢れかえっています。その方たちを見る時に、病気の人がなんて多いのだろうと思います。皆、治りたいから病院に来るのです。特に阪大には、重い病気の方たちが治療に来られています。あるいは、なにか異常を覚えて検査に来られているのです。
健康なら病院には行きません。医師も必要ありません。
ファリサイ派の人々は、自分たちは完璧に律法を守り、祈りと、施しと断食とを欠かさない立派な人であると確信していました。罪についてなど、考えたこともないという人々でした。神を信じていたでしょう。しかし、その御心についてまったく鈍感でありました。救いを必要としていませんでした。何が罪かも理解できずに先生と呼ばれていたのです。
一方徴税人たちは、いやというほど自分が罪人である事を自覚していました。罪深い自分、しかし、どのようにしてそれを解決したらよいのか解らない。魂の医者の所へ行く必要がある。
主イエスはご自分がこの世に来られた目的をしっかりとお話し下さいました。自分の事を正しいと思っている人を招くためではない。「罪人を招いて、悔い改めさせるためである」と言われました。
罪の自覚が出来る事は素晴らしい事です。
人は罪を持って生まれてきます。生まれながらに自己中心なのです。真の神を信じてもまだその根が残っているのです。ですから日々主イエスとの交わりの中で、悔い改め、御言葉によって軌道修正していかなければなりません。ともすると、自分が中心となり、自分の都合、自分の好み、等に流されてしまうからです。主イエス中心に生きる事を主は求めておられるのです。悔い改めとは、ただ「ごめんさい」と言う事ではありません。勿論結果的にそのように告白する必要があるでしょう。真の悔い改めとは、イエスがキリストである事を信じる事なのです。あなたの救い主です。あなたの罪のために十字架に架かって死んで下さいました。もし、世界に人があなたしかいなかったとしても、主はあなたのために十字架にかかられたでしょう。愛のあらわれなのです。
主を受け入れた時、何が心の中におこるのでしょうか。神に愛されている自分の発見と自覚です。人が一番恐れるのは、孤独ではないでしょうか。だれも自分を見ていない。意識していない。無視されている、価値を認めてくれないなどであったら、生きて行くのはつらいのではないかと思われます。人がだれも振り向かなくても、神はあなたを知っておられ、受け入れ、愛して下さいます。父親がその子を慈しむように、私たちを愛し、助けて下さるのです。主イエスを心に受け入れていなかった時、苦しい時どのようにしていたのでしょうか。必死に耐え、苦しみを乗り越えてきたかもしれません。しかし、今は、数々の真理の御言葉に支えられ、苦しい時に賛美しながら主が共におられる事を体験できるのです。祈れば助けていただける、いや、祈る前から助けの手が展ばされている事を知るのです。主イエスは救い主です。癒し主です。私たちの人生の主なのです。
主イエスに心の一番深い所、傷ついている所、だれにも打ち明けられない心に触れていただきましょう。主イエスを心にお迎えしましょう。
私達の人生は栄光に輝くものに変えられるのです。




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