阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年10月11日
「神の言葉によって生きる」
Tペトロ1章22−25節

  「恵み深い神に感謝せよ 慈しみはとこしえに」(詩編107:1)とあるように、私たちの神はまことに恵み深く、慈しみ豊かな神です。日々この方に守られ、導かれて歩めることは何と幸いな事でしょうか。ペトロの手紙は1章の挨拶の部分にあるように、各地に離散し、仮住まいをしている選ばれた人たち(クリスチャン)に宛てて書かれた手紙です。迫害の為に逃れて他国で生活しているクリスチャンに宛てて、慰めと希望に満ちたメッセージが記されている手紙です。
しばらくの間、いろいろな試練が続くかもしれないが、その試練によって信仰が本物と証明されて、尊いものとされ、主イエスが来られる時、光栄と称賛と誉れをもたらすとあるのです。
私達は、今それぞれが懸命に地上での生活を送っています。しかし、地上は仮の住まいであると聖書はいいます。Tペトロ1章17節では、神を「『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」とあります。
仮住まいとは、本来の居場所ではなく、寄留している者、旅の途中の者の住まいという事になります。では、私たちの本当の住まいはどこなのでしょうか。それは言うまでもなく主が備えて下さっているところ、神の国なのです。神の国から派遣されて、この世で神の栄光を表わす為に生かされているという事を忘れてはなりません。
聖書は、まず聖なる者になるようにと勧めています。(:15)聖なる者とは、ファリサイ派の人々のように、外側を整えて、善行と施しを行って、人々の尊敬を受けるというような、外面の事とは違います。
聖書では時々「聖徒」という言葉が使われています。また、ローマ8章27節では、「霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して下さるからです」とあって、聖なる者たちのために聖霊が執り成されるとあるのです。人は皆生まれながらに罪を持っています。しかし、イエス・キリストを心に信じ、公に告白する時、一切の罪が赦され、義とされ、清められるのです。ですから、主イエスの十字架の贖いによって、主を信じる者は皆聖徒とされるのです。
「人は皆、罪を犯して神の栄光をうけられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23、24)。
主を信じる者は皆聖徒であって、聖なる生活をするようにと勧めを受けています。
聖なる生活とはどのような生活なのでしょうか。
1、神と人の前に誠実であるという事が考えられます。それは、神が喜んで下さる生き方ともいえるでしょう。ミカ6章8節には、「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い 慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである」とあります。神の御心はこれだとあるのです。しっかりと目をイエスに向けて、目を離さない。世の中の誘い(いざない)が、罪の誘いがあっても、揺らがない。常に神の御心を慕い求め、謙遜になって神に従い続ける、絶えず十字架の主を見上げて贖いを感謝する。これが聖徒の姿です。主を愛し、その教えを心から受け入れて従うなら、聖なる者としての聖い喜びの生活を送る事ができるでしょう。
2、聖なる者、クリスチャンは、神の御言葉によって生きる者です。祈る事、これは呼吸に譬えられます。また、神の御言葉は日々の魂の糧です。呼吸と糧、どちらも霊的な命を保つために欠かすことの出来ないものです。御言葉を慕い求め、待ち望む事、神との霊的交わりである祈りを絶えずなし、御心を求める事、これが聖徒です。
3、ペトロはさらに、主が教えて下さった「深く愛し合う」事を記しました。(Tペトロ1:22)主は、繰り返し愛し合う事を教えてくださいました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34,35)。新しい掟(いましめ)とは、互いに愛し合うことであると、主イエスは教えられたのです。愛し合うとは、主イエスにより魂が恵まれ、喜びに満たされるところから始まるのではないでしょうか。
三浦綾子さんは重い結核性のカリエスで、病院のベッドに寝て、身動きできない時、洗礼を受けたそうです。札幌の洋菓子屋の社長である西村久蔵という方が、やさしく根気よく導いて下さって、病床で受洗しました。綾子さんは受洗後、「不思議なことが起こった。洗礼を受けたその日から、わたしはうれしくてうれしくてならなくなった。心の中に灯がともったのだ。その灯がわたしを揺り動かすのだ。」(道ありきP182)。早速、3人の人の名前を挙げて救われるように祈ったとある。三浦綾子さんはこの時までにすでに信仰を持っていたのですが、この喜びはまだ知らなかったようです。
西村久蔵さんという人の、キリストの無償の愛が綾子さんの心に届き、受洗し、喜びに満たされて魂の救いの為に祈るようになったのです。神の朽ちない種、即ち神の生きた言葉によってから新たに生まれた事を自覚したのです。
「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれたのです。」(Tペトロ1:23)新たに生まれた事の自覚によって尽きない喜びに満ち溢れたのです。クリスチャンとは、新たに生まれ変わった者です。聖徒にされたのです。
これは、神の御業によるもので、主イエスを心にお迎えする時に、神の恵みの業によっておこる業なのです。不思議な御霊の業です。
「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」のです。神の言葉は生きていて、人々を救う言葉です。天地は神の言葉によって創造されました。神の言葉は人を生かし、命を与える真理の言葉です。
クリスチャンとは、イエス・キリストを救い主と信じ、受け入れ、新たに生まれ変わったという経験をした者です。その結果、信仰の告白とその決意として、受洗をし、また聖霊のバプテスマに預かり、この世にあって神の栄光を表わしながら生きていく者なのです。
また、いかなる試練にも、苦難にもキリストが共におられる事と、また、生きた神の言葉に励まされながら、乗り越えられる者となるのです。キリストにあって勝利する生活です。
新たに生まれることは、難しいことではありません。天地万物を創造された真の神が存在される事、神がこの地上に遣わされた御子イエス・キリストの十字架の死と、復活を信じ受け入れる事、それを告白する事。それだけなのです。「実に、人は心に信じて義とされ、口で公に告白して救われるからです。」(ローマ10:9)
「あなたの罪は許された」「あなたは新たに生まれ変わった」と、神は宣言し、認めて下さり、神の子として新しい命に生きる事が出来るのです。
この世のすべては変わって行きます、変わらないもの、消失しないものはありません。しかし、神の言葉は決して変わらないのです、ペトロは、イザヤ書40章の美しい御言葉を引用しています。
「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(Tペトロ1:24)
草は枯れ、花は散るのです。地上の命はいつしかなくなるのです。
しかし、私たちの希望は、また信仰は真の命を与えて下さった神にかかっているのです。この方により頼む時、「希望は失望に終わることはない」(ローマ5:5口語)。イエスキリストを心から信じましょう。変わる事のない神の言葉に生かされて、その愛をしっかりと覚えて、日々聖徒としての歩みを続けて行きましょう。神は限りない祝福を備えて下さっているのです。



 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ