阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年10月18日
「慰めと希望の活ける神」
コリントU 1章3−11節

  「わたしたちの主イエス・キリストの父である、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」(コリントU1:3)主のみ名を崇めます。5ヶ月ぶりに講壇に立たせていただき感謝します。昨年の春、消化器の内視鏡健診で、十二指腸乳頭部にポリープが発見されました。癌の疑いがあるという検査の結果でした。しかし、それはまだ悪性とも良性ともいえないものでした。
経過観察で様子を見る事にしたのです。医師から、もし処置するとすれば、開腹手術で十二指腸全摘、胃の3分の1、膵臓、肝臓の一部分を取って、胃と小腸をつなぐという大手術が必要という説明がされました。また、内視鏡で患部だけを取るという処置があると聞き、地元の病院ではできないという事で、身内の紹介で東大病院に行き、説明を聞きました。しかし、やはり内視鏡ではできないと言われました。この開腹手術は危険な難手術であるが、大丈夫と言っていただきました。退院してから数か月通院が必要ということでした。教会の働きがあって、また、家内の介護が必要なので、距離的、時間的に東京は無理と判断し、帰尼して関西圏で内視鏡の手術ができる所を紹介していただきました。県立病院の医師は親切に、神戸大、京大、阪大病院を推薦してくださったのです。一番近い阪大病院へ行きました。しかし阪大病院でも内視鏡手術はできないという事で開腹手術することになりました。その頃群馬大学病院の医療事件が発覚して、内視鏡手術の背景がわかりました。まだ技術的に難しく、医療保険の適用外だというのです。
秋の北陸聖会の1週間前、教職セミナーの講師を依頼されていました。この聖会のご奉仕が可能かどうかを主治医に確認すると、大丈夫という事でお世話になりました。退院した時には、体重が20キロも減り、食事がほとんど摂れない状態でした。聖会の2週間前、セミナーの1週間前、体調が思わしくなく、体が動かなくなってしまいました。聖会はお断りせざるを得ないのではないかという思いに囚われました。家内は、「みんなが祈っているのです。神様の助けを信じましょう」と言ってくれました。その言葉に支えられ眠りについたのですが、深夜になって不安が襲い、北陸教区長に電話をかけて、健康状態からいって無理だと思うと言いながら、鎌倉の菊山先生にお願いしようと言いかけました。しかし、それは教区長に委ねる事柄であると思いとどまり、お断りだけしたのです。大引教区長も家内と同じく、「皆が祈り続けているのです。とにかくいざという時の準備はしますから、祈って待ち望みましょう」と言って下さいました。そして、車椅子を家内に押してもらって北陸に出かけたのです。聖会では立ち続ける事が難しいので、椅子に座り、賛美が始まろうとした時、私の肩をたたいて手を差し伸べる人がいました。振り返ってみると、菊山先生です。何かあったらお願いしようと思い続けてきた先生がおられるのです。廣瀬先生のメッセージが聞きたくて参加しましたと言うのです。不思議な導きに感動したのです。
聖会でのメッセージは座ってしかできないのですが、話し始めると不思議な事にスムースに話せ、アピールの時は驚くほど力強い声が出て、自分でびっくりするほどであったのです。ほんの少し前には、嚥下(えんげ)できず、呑み込めず、咳と痰に苦しんでいたのです。
真理と恵みを豊かに証しできて、聖書に根差した慰めと新たな希望、聖霊の励ましを受ける素晴らしい時となりました。「主は活きたもう」を実感する素晴らしい時でした。ハレルヤ、感謝!!
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」(Uコリント1:4、5)
人生には様々な苦悩があります。しかし、イエス様を信じる信仰によって、神様が私たちを慰めてくださるのです。その第一の慰めは、このような試練を通して「祈られた」祈りの慰めと恵みです。
多くの人々の祈りに支えられて、どれだけ励まされたか。特に、北陸聖会の御用をさせていただくために、難しい手術が成功しますようにと嘆願して下さった。それで生かされた事を実感して慰められたのです。二つ目に与えられた慰めは、手術台に寝かされ、様々な準備がなされて行く中で、私も80歳になって、つらかった青少年時代を回想し、もう十分奉仕してきた、「ありがとう」という思いがした時、「あなたはわずかなものにもよくやった」というお声が聞こえてきたことでした。人生の総括がされ、終わりを迎えたと思い、慰められ、感謝と主を崇める賛美をしながら意識を無くして、無意識の中に消えていったのです。そして、頬をたたく合図におぼろなうちに家内の顔がはっきりと見えた時、私は天国にいるのかという思いになったのです。意識がはっきりすると、復活したという気持ちになっているのでした。北陸聖会のために生かされたという感動の喜びが込み上げてきました。教会のみなさんのお祈り、関西教区のみなさんのお祈り、北陸教区のみなさんの祈り、祈って下さった一人一人の答えであると、主をあがめたのです。
第三の慰めは、北陸聖会に招かれたことの神の御心を思う時、不思議な神様の恵みの導きと、ご計画を示されて慰められるのです。北陸の開拓は、日本の宣教の一番難しい地方といわれてきていますが、1970年に、安斎来先生が京都の七条教会の伝道所として開拓を始めたのでした。安斎先生は、京都の岩倉で伝道しておられたのです。私は神学校の卒業間際に意味不明の精神錯乱に陥り、信仰がわからなくなり、町を彷徨して警察に行き、罪の赦しを乞うという行動をとりました。意味不明の事を言うので、神学校に連絡が行き、引き取られたのですが、学校もどうすることもできないので、京都の父親に引き取られることになりました。父は何も言わずに見守り、今後の事は落ち着いたら好きなように考えたらよいと、優しく言ってくれました。知り合いの紹介で京大病院の精神科を受診すると、入院の必要はないが、全快するには、5,6年かかるだろうと言われました。そのような状況の中でも日曜日になると教会に足が向くのです。近くの岩倉教会に行き、安斎先生に出会ったのです。7月の暑い夏でした。北白川の公園でフィンランドミッションの老宣教師が天幕伝道をして、安斎先生が説教を頼まれていたのです。路傍伝道が終って集会が始まる時、安斎先生が「廣瀬君、君はなかなか説教ができるという事だから、今日は君がしなさい」と言うのです。私は、こんな現状だからと躊躇し、断ると、先生は、「神様がさせて下さる」といわれるので、迷いながら引き受けました。
説教が始まり、イエス様の救いを語り終わり、決心者を募ると5名の人が前に進み出ました。これを見て感激した老宣教師は、北白川の自分の教会は無牧だから、次の日曜日も説教して欲しいと言われたのです。最初15名位の礼拝でしたが、1ヶ月後には30名位の礼拝になって、正式に招聘されることになりました。東京の弓山先生に了解を求めると、「君はアッセンブリーの訓練を受けたのだから、帰りなさい」と言われて、当時無牧であった、尼崎教会に遣わされたのです。私の宣教の生涯が導かれ、世界教会成長運動という大きな宣教事業を始め、今日の宣教の生涯が始められたのです。いよいよ人生の終りが近づいた時、北陸聖会という記念の聖会に招かれ、安斎先生を通して表わされた神の不思議な意図、見えない聖霊の恵みの奇跡の証しをする時とされ、神が備えられた計り知れない恵みであったと、感謝するのです。私は神の憐れみと、安斎先生の勇気ある、また人の知恵によらない言葉で生かされたのです。そして、父が高齢になって弱った時、17年間世話し、受洗したのです。ハレルヤ!感謝!
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にあるますように、アーメン」
(ロマ11:33−36)



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