阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年10月25日
「恵みと愛の溢れる神」
創世記1章1−31節

 「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)人が自分の命を意識する機会は病気の時です。私はこの度、現在の医療技術では非常に難しい手術を受けるという体験をしました。阪大病院でお世話になりました。入院前、山崎豊子の「白い巨塔」のモデルになったという噂のある施設だという先入観がありました。80歳になるまで、色々な病気で様々な病院に幾度となくお世話になりました。今回、十二指腸乳頭部の初期癌ですが、内視鏡で処置できると思っていたのです。開腹手術では命を落とすケースが多いという情報も聞いていたので、内視鏡でできる病院をと、阪大病院を紹介されました。しかし、阪大でも開腹手術で対応する事になりました。阪大では年間40症例位を扱っており、「大丈夫です。治ります」と言われました。言葉は最大の薬とも言われますが、この教授の言葉で、内視鏡の拘り(こだわり)はなくなりました。後で分かった事ですが、内視鏡は保険の適用外だそうです。入院してからの手術、回復室、術後の手当や看護にあたる医師や看護師さんたちの心優しく、丁寧な心温まる対応に、本当に心打たれました。テレビドラマのような教授回診もありましたが、現実には教授は医師や研修医と共に、和やかに温かな中に権威をもって、優しく問診をされるのでした。私が「80歳でこの度の手術を受けて、命を助けて頂いて、この命は先生方から頂いたものです。ありがとうございます」とお礼を言った時、「お大事に」と言われてほろっとされていました。阪大病院は、近代の最先端の医療技術と共に、すべての治療に携わる人々が優しさと謙遜、丁寧さを心掛けている最高の病院だと思いました。何をさておいても、この手術で「命」の重さを深く示されるのでした。確かに、輝かしい医療技術で「命」を延ばして頂きました。しかし、その「命」も終わりが来ます。そして、その手術に携わった医師たちの命も終わる時が来るのです。誰でも終わりの時があるのです。私は看護師さんたちに言いました。「誰でも終わりがあります。しかし、私はイエス様を信じているので、永遠の命が約束されています。」そこに永遠の安らぎがあります。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない』」(ヨハネ11:25、26)人は有限の世界に生きています。「永遠」は始めなく、終わりがない、時のない事を意味します。この世には、見える、解る世界と、理解できない世界があるのです。人には心があり、精神の世界は理性を超えた有限の世界を内包していることが、神の言葉、聖書によって示されています。
今朝のメッセージは、聖書の最初の「初めに、神は天地を創造された」という御言葉です。天地を創造されたという表現は、限りなく深く、重く、絶妙な森羅万象の根源を示しています。見える有限の世界の存在、自然の出現の真理を示しているのです。命と自然(存在)の根源が「神様」にあるのです。自然の多様な仕組み、多様な動植物の存在と命の連鎖に生かされている自然、そして、どのような生き物にもない、人の理性の創造性は不思議な力があるのです。聖書の創造の啓示は、宇宙のバランスの根源である太陽の創造を始め、地に植物、そして、それを命とする空水陸に住む動物が置かれ、「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに生み出せ。』そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた」(創1:24、25)自然の動植物を整え、その充実を見て良しとされたのです。そして、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(創1:26)と言われました。神様は、最後に人をご自分にかたどって創造されたのです。ここに自然の創造の秩序が示されているのです。
第一に、自然森羅万象を人が住めるように創造して後、人を創造されているのです。通常、人は自分は自分で生きてきたと思いがちです。しかし、水や空気なくして生きることさえできないのです。神様に命の根源があり、維持する恵みを備えておられることから、人の存在、生存は神様の恵みに支えられてあることがわかるのです。天地創造の神を信じることこそ、その恵みに生かされることになるのです。真の創造主なる神様を信じる最大の喜びは、「生かされている喜び」、「感謝の日々」を歩む人生に変えられることです。第二に、「神は御自分にかたどって人を創造された。・・・男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創1:27、28)と言われたのです。この御言葉は人の性質を明らかにしています。人は神に似せて造られたのです。その証しは、人間の創造性です。理性は人間固有の能力です。自然の原理を構成し、様々な創造を重ねる事ができます。命の原則を研究し、命を維持する事を開発するのが医学です。しかし、それにも限界があり、終わりがあるのです。イエス様が示された命は永遠の命です。神に似せられた本来の人は、永遠の命に生きる事にあるのです。人の命は本来神の命、永遠の命なのです。どのような変化があっても、永遠の命は変化を超えて新しい再創造の希望を与えて下さるのです。
第三に、存在の根本的な本質は、神様は霊的存在であり、不可視であるのです。人の思いや生活は、本来的に神様が示して下さる御心によって思いを決める事になるのです。神様を信じていない人は、自分の欲望や願望によって自分の優先順位を決め、果てしなく対立と闘争の連鎖が起こるのです。聖書は、「神は愛なり」(Tヨハネ4:8)と記しています。神に似せられている人の本質は「人は愛である」、愛で生きると言い得るのです。人の愛は、エロスの愛であり、自己保存、自己本能、自己快楽の愛です。神様の本質である愛は、愛する者のために命、自己存在を与える愛であるのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)真実の愛は、「責任」を持つ、愛する人のために愛の責任を持つのです。不真実の愛は責任を持ちません。神様の創造の根本の原理は、神様の愛の啓示に他ならないのです。神様は創造を「満足」されました。人間の歴史は、神様から離れて行くに従い、支配と収奪、領地の略奪と富の蓄積に差別と憎しみが、神様の愛を失った現実が続いているのです。人は罪に気づき、「和解の愛」を回復して、真実の和解と、平和を取り戻さねばなりません。神様は罪深き世に、神様の愛を実現する為に、一人子イエス・キリストをお遣わしになり、この方によって見えない神様を、見える方として表わしてくださったのです。主イエスは、「イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。』(ヨハネ12:44−46)と叫ばれたのです。この世のどのような罪をも、誰の罪でも悔い改める者は許され、解放され、光の中に導かれる神様の愛を主イエスが示されたのです。
主イエスは全ての人の罪の身代わりとして十字架に架かられたのです。
「この方(キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を贖ういけにえです」(Tヨハネ2:2)「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Tヨハネ4:12)愛し合う時、神の国はそこに実現するのです。すべての見える有限の世界には終わりがある。しかし、見えない神の愛の世界は永遠に続き、新しい創造が約束されているのです。
神の国は、恵みと愛が満ち溢れているのです。現実の世界にありながらも、主イエスを信じる者は、「永遠の神の愛」の国に生きるのです。

「そこで、わたしはあなた方に最高の道を教えます。・・・たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。・・・・愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・愛を追い求めなさい。」
(Tコリント12:31−13:1−8、14:1)



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