阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年11月1日
「神の愛に生きる真実の幸せ」
エフェソ3章14―19節

 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3:14−19)

 人は、自分が助けて欲しいと思う時、初めて助けられる有り難さが解るものです。健康な時には全く気付かないのですが、この度
15時間にわたる大手術を受けて、体重が20キロも落ちて、退院しても歩行が困難になってしまいました。一段の階段が大きな壁になるのです。退院して24日目に北陸聖会に列車で行く事になりました。車椅子に乗せられて駅に行き、あらかじめ列車の時間と席を伝えると、乗車の準備をして駅員さんが付き添ってくれるのです。大阪駅に着くと、駅員さんが待ち受け、多くの人々をかき分けながら、エレベーターで乗車ホームに案内し、車両に乗せてくれるのです。行先の金沢駅には連絡がいっていて、到着するとホームに、やはり二人の駅員さんが待機していて、混雑する夕方の駅を改札口まで送ってくれるのでした。帰りもまったく同じようにお世話になって、無事帰宅する事ができました。私は今まで歩行が困難になった事がなかったのですが、初めて足や体の不自由な人には多くの人の助けがいる事を実感しました。16世紀、日本にザビエルが渡来した5年後ですが、アルメイダが来日し、宣教を始めるにあたり、聖書を日本語に訳そうとしたのです。「神は愛なり」の「愛」を訳そうとするのですが、日本では、愛とは仏教の思想で、「欲情」「色欲」として、人を惑わす諸因の元と考えられていたのです。そこで、アルメイダは、「親切」と訳したと言われています。人間性の本質は、「親切」、思いやりにあると言えます。
先週は、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という御言葉を通して、命と存在の根源は神様の恵みにある事、神はご自分に似せて人を創造し、人に支配を任されたという事実によって、神の深い愛をあらわされた事を学ぶことができました。神は愛であって、創造の平和に責任をもって回復して下さる事を、キリストによって教えて下さったのです。全ての人は、今、生きているのではなく、生かされているのです。人は、自分で生きていると思いがちです。しかし、実際には、生かされているのです。空気、水が与えられ、学習もしないのに母の乳を飲み、無意識のうちに育まれていくのです。母の育児は母の愛によるのです。家族は愛し合い、助け合って生きるのです。家族は本来愛し合って家族となります。人は育って友と交わり、愛する人と出会って結ばれるのです。人は、愛の帯で結ばれて命が繋がるのです。しかし、現実には神様を忘れ、神様を認めず、信じようとしない世界です。聖書には、「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(Tヨハネ2:15−16)とあります。ここで、教えているのは、愛の対象についてです。まず、愛し、心を惹かれるものが、人を混乱させ、惑わせ、生活を破壊する時に、愛は人を破滅させるものと化すのです。この世的な惑わしと破壊は、過ぎ去り消えていくもの、打ち消されるもの、空しい罪深いものであるのです。言い換えれば、人の心が神の御心に生かされる時、神の御心に生かされる愛は、永遠性を持ち、神の国の命として人を生かすことになるのです。
人は迷いやすく、本当に大切なものを見失いがちです。しかし、神様を信じ、心のナビゲーターとしてイエス様を信じ、その御言葉を愛する事によって、神の約束される真実の幸せの実を結ぶ事ができるのです。
イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われるのです。だからこそ、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ12:1、2)という御言葉を心に留めて、イエス様に表わされた神の愛を、固く心に受け入れなくてはなりません。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:14)とあるようにです。キリストを信じるとは、キリストの愛に生きる事です。        第一に、キリストによってあらわされた神の愛は、責任に裏付けられた愛です。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う(つぐな)いけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9,10)神様から離れた人間は、自己保存と、自己愛に生きる為に「愛は惜しみなく奪う」と言われ、愛する者の為に生きるという神の愛を失っているのです。本来は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)とあるのです。人間的なエロスの愛しかないところには、争い、憎しみ、対立、裏切りが世界を覆い、人間本来の愛し合って生きる事が出来ず、正に罪深い現実となるのです。この現実の罪を贖う犠牲として、御子イエス・キリストは十字架に架かって死んで下さったのです。神様は真実の愛、アガペーに生きる道を示され、人間が真実の愛に生きられるようにしてくださったのです。真実の愛は、愛する人のために自分の全存在を犠牲にする。神様はその証しを示されたのです。
第二に、「その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:16,17)とあって、この祈りのように、クリスチャンはキリストの愛に根差し、キリストの愛に立って生きる人となるのです。それは、「優しさ」です。「優しい」という字は人偏(にんべん)に憂う、心配するという意味の字を書きます。気遣うとは、心に留めるという事です。愛するとは、その人の存在が生き続けることです。
第三に、真実の神様の愛は、「赦す」事です。どのような破壊的な状況になっても、「和解」する、させる愛です。「和解」の前提は、「赦す」ことです。そして、「忍耐」です。赦すことは「寛容」が求められるのです。対決と排斥は、憎しみ、自己利益、苛立ち、妬み、恨み、軽蔑となって、関係の決裂をもたらします。それが罪の結果であって、悲しみと絶望しか残りません。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(Tコリント13:4−8)
キリストによって示された真実の神の愛、アガペーに根差し、自己愛であるエロスの愛が清められ、神の御国の愛に生かされ、豊かな実を結ぶことを祈ろうではありませんか。





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