阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年11月8日
「豊かに稔る祝福の道」
ヨハネ3章1―6節

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」                                  (ローマ7:15−24)
長い間、風呂に入らないという事は、日本の風土では我慢ができない事です。通常風呂には毎日入るものだという感覚でいた私にとって、ロスアンゼルスに初めて行ってホームスティした時、アメリカでは毎朝起きた時にシャワーをするのが習慣である事を知って驚きました。湿気のない風土では、汗ばむ事がないようで、朝の目覚ましにシャワーが良いという事です。今年の夏は、約4ヶ月間入院していましたが、3ヶ月間位はタオルで体を拭く位で済まさなければなりませんでした。病室は空調がされていて、適切な温度でしたが、3ヶ月ぶりにシャワーをした時、体からハラハラとちりのようなものが落ちるのを見て驚きました。体がいつも清潔にされている事は気持ちの良いものです。体の汚れは見えるし、感じるものです。しかし、人の心は見えません。心の汚れは自覚できずに、汚れが溜まり、くせになり、習慣化してしまうものです。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:15−17)「自分のしていることがわかりません」。自分のしていることが分からないという事は、無意識の内に行っているのであって、もはや無自覚に自分の習慣となっているという事です。言い換えれば、自分の固有の性格となっているという事であって、長い間洗い落とさない、本来あってはならない不潔な「あか」のようなものといえます。自分が望まない事をいつの間にか習慣化して、自分が望んでいないし、望んではならない事をしてしまう事になります。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)命と存在の根源は神様にある事をこの2週間で学び、創造の最後に、「神にかたどって人を創造し、全てのものを支配することを任せられた」(創世記1:26、27)。神様は、命と存在の根源として、森羅万象を創造し、調和を備えられたのです。人を神に似せて創造された事の根源は、「神は愛である」ことの表れです。人を「男女」として、愛によって命を繋ぎ、神様の御心である「調和」を祝福の根源とされたのです。命と存在の調和、自然の調和こそ、神様の御心であり、命と存在の意義であるのです。
人は、人間と表記するように、男と女が愛で結ばれて初めて新しい命に繋がり、真実の愛がある所に調和と平和が祝福として実を結ぶのです。しかし、創世記2章に記録されているように、人は創造された全ての自然を委ねられるのですが、「善悪の知識の実」だけは食してはならないという命令を神から出されるのです。人間の始祖であるアダムとエバは、「禁断の実」の、目に美しく、おいしそうな実に心惹かれて、神様の命令を無視し、取って食べるのです。神様の言葉を無視するという事は、神様を否定する事です。そして、人間は自分の欲望を満足させる事になるのです。人は、本来正しく生きようと思いながら、神様を見失った時に、エロス、欲望の愛にだけ生きるのです。本来人は誰でも心の奥底に、神様を認める人としての心の在り方を無意識に備えています。現実は「わたしは、自分のしていることが分かりません。・・・・・そういうことを行っているのは、もはやわたしではなくわたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:15―20)
人が共に生きる為に、決まり事や法律があります。法律を犯すと裁かれます。互いの信頼関係によって生活は成り立ちます。そこで、約束を守る事、誠実さ、ウソをつかない事が大切です。演歌の歌詞に、「ウソもつきます生きる為」とあるように、人間は誠実に生きようと思うけれども、実際は「憎んでいることをしてしまう」のです。「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」自分がしようとする意志はあるけれども、できないのは「罪」であるというのです。言い換えれば、本来、神様を信頼する者であるはずが、神の御心、御言葉を否定した所に罪の根源があるのです。聖書の言葉で、「罪」はハマルテアーと言って、「的外れ」という意味です。全ての存在の支配を委ねられていながら、神様の言葉を無視して、自分の欲望に従った事によって、人間に約束されている祝福を失う事になるのです。人は、自分が気に入らなければ、本来愛おしむべき、かわいいわが子を殺してしまう事もあります。そして、人は社会の中で様々な争いを起こし、犯罪が生まれます。そして、国と国との利害関係が憎しみとなり、殺し合う戦争が世界に絶え間ないのです。人の心には日々の中に塵が積もるのです。人は、心の奥に神様の創造された調和と平和を望んでいながら、現実にはもう一人の「罪」深い自分に支配されているのが現実なのです。ヨハネによる福音書3章に、ニコデモというユダヤの指導者である、衆議所の議員が、イエス様の所に来ました。イエス様の話される神の国と、その偉大な奇跡の業を見て、「あなたこそ神様のもとから来られた指導者ではないのか」と尋ねるのです。イエス様は、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われるのです。ニコデモは、「新しく生まれる」ということが分からないのです。それは、「悔い改め」を意味しているのです。ユダヤでは神の国は、モーセによって与えられた「律法」を守り通す時に、メシア(救い主)によって実現するという伝統が根付いていたのです。衆議所では、生活の隅々までミシュナ―(律法規定)を定めて、記録する用具がなく、暗記していたのです。律法学者は暗記して庶民に教えるのですが、庶民はこまごまと覚える事はできず、知らなければ守る事ができません。守れない人は罪人、穢れた人として差別されるようになっていったのです。イエス様は人が人を区分けして差別と憎しみの現実こそ、罪深い人間の対立であるとし、神様は裁きの神ではなく、愛の神であり、許す神であって、和合と平和が神の愛の本質である事を教え、罪を悔い改める事、「新たに生まれる」事を教えられたのです。ニコデモは、イエス様への批判を厳しくしている衆議所の議員であり、律法学者でしたが、イエス様の教えに共感して、夜目立たないようにそっとイエス様を訪れたのでした。罪を自覚し、反省して悔い改める、新しく生まれ変わる時、そこに「赦し」があり、神の国が実現されるのです。イエス様は衆議所で最終的に死刑を宣告され、神の愛と許しを語り、十字架の刑に処せられるのです。そして、自分を憎む人々の為に、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。自分を殺そうとする人をさえ、赦す究極の愛、これが神の愛なのです。神の国を見る事は、神の愛に生きる事である事が分かります。イエス様を信じましょう。そこに人間の真実の平和と調和がいつも回復される希望が約束されているのです。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」       (Tヨハネ4:9、10)




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