阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年11月15日
「人を生かす喜びの命」
ルカ15章11−24節

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 
                  (フィリピ4:4−7)
  人は、「喜び」で生きるといえます。生きている事が苦悩であり、苦痛であるならば、生きる意味を失う事になってしまいます。春に種を蒔き、梅雨時に草取りに励み、熱い夏の日差しの下で害虫の駆除に励む。秋に刈り入れがあり、稲穂の実りを「喜ぶ」事になる。働いて収入を得た時に、「喜び」となるのです。生活の様々な願い事がかなう時に「喜び」が生きる命となっているといえるのです。
「喜び」には、いろいろな喜びがあります。喜びはまた、「満足」の感情でもあります。働いて適切な報酬を得る事や、仕事を成し遂げた充実感などを挙げる事ができます。「喜び」の反対は、「悲しみ」であって、貧しさ、飢え、不満、病気などの要因があります。しかし、人は、同様の環境にあっても、「不満」を持っていると「満足」を止めて行動する事になります。聖書は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエス において、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16−18)と言っています。
「いつも喜んでいなさい」という事は、喜べない事にも喜ぶ事です。人は充実し、幸せに見えても自分で満足しない時もあります。また、実際に、いろいろな物事がうまくいかずに苦しんだり、悲しんだりする事もあります。しかし、聖書は例外なく、「喜ぶ」事を求めているのです。それは、難しい事です。人にはできない事です。いつも繰り返し申しておりますように、聖書の言葉は神様の言葉です。神様の言葉、特に命令として、「どんな時にも喜べ」と言われる事は、人には不可能なのです。しかし、神様の「命令」の言葉は、「約束」の言葉であるのです。言い換えれば、「いつも喜んでいるようにしてあげよう」という、神様の愛の御心として理解するのです。人にはできないが、どのような時にも、「喜ぶ」事ができるようにして下さる神様の「約束」がそこにあるからです。
ルカによる福音書15章には、有名な「放蕩息子」の物語があります。ある所に裕福な広大な農地と多くの家畜を持った人がいて、二人の息子がいたのです。弟はやがて分家しなければならないので、自分が受け継ぐはずの相続財産をお父さんに求めたのです。父親は、おそらく、今自立してもうまくやっていけるかどうか心配した事でしょう。村の若者たちもすでに街へ出て、その様子に興味をひかれたのかも知れません。
父親は、息子の事を思いながら財産を分けてくれるのです。弟息子は初めて手にした多額の資産を金に換えて、遠く離れた外国に出ていったのです。誰も知らない土地で、大金を持った弟息子は、初めて知った都会の娯楽に目を奪われ、来る日も来る日も放蕩に身を持ち崩していくのです。
持ち金を使い果たした時に、その地方でひどい飢饉が起こり、食物に窮するようになってしまいました。羽振りの良かった時に親しくしていた知り合いの人を、食べる物も着る物もなくなって頼っていったのです。しかし、かつては親しくし、豪勢におごってやったりもしたのに、一人の物乞いのように扱われ、よりによって豚の世話をさせ、彼には食物を与えず、豚の餌のいなご豆をたべて飢えを凌ぎたいと思うようになってしまいました。誰も彼に食物をくれる人はいなかったのです。彼はユダヤ人でした。ユダヤ人は、豚は穢れた動物として、律法で食する事は禁じられ、嫌われていたのです。その豚の世話をさせられただけでなく、豚の餌で飢えを凌ぐほどになっていたのです。それでも誰も彼に手を差し伸べてくれる人はいませんでした。もはや人間としての尊厳を否定され、人間として落ちる所まで落ちてしまっている悲惨な時に、「我に返った」のでした。そして、お父さんの所ではどんなにひどい飢饉があっても多くの雇人も皆食べる物に困った事はなかった。彼は神様に対しても、お父さんに対しても、その愛情に満ちた気持ちを全く無視した罪深い人間になってしまっていた事に気付いたのです。彼は直ちにお父さんの所に帰って行きました。一方、お父さんは自分のしたい事に囚われて出て行った息子ではあるのですが、毎日のように小高い丘に登って、息子を待っていたのです。遠くに、見るもみすぼらしい裸足(はだし)の息子を認めると、走り寄って抱きしめるのでした。そして、息子が回心し、自分の所に帰って来た事を喜ぶのでした。
この譬え話が教えようとする事は、人間は、誰しも恵まれた環境にありながら、それに慣れてしまって、その置かれた素晴らしい環境に気付かず、絶えず自分の自己満足の「喜び」のために、自分を愛してくれる人の善意を見失ってしまうのです。お父さんの善意を無視した息子は、正に神様の恵みを忘れた罪深い人の心を表わしているといえます。
「喜び」は、人の大切な生きがいであるのですが、「喜び」の動機の根が神様の思いから離れている時、充実した今の「喜び」がわからなくなり、刺激と瞬間の「喜び」に惑わされるという不幸を教えているのです。
第一に、この譬えが教えている教訓は、真実に愛してくれているお父さんの心を理解する事です。お父さんは、神様を表わしています。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。繰り返し学んできました。命と存在の根源は神様にあるのです。そして、その根源は、神様の愛にあるのです。「神は愛なり」(Tヨハネ4:8)。全ての存在は神様の愛によって造られ、人間に支配を任せられたのです。人間に委ねられたのです。人は、調和のとれた、平穏な充実した環境の中に置かれていたのです。しかし、自己欲に惑わされ、自己欲を求めて神様の御心から離れてしまった時、試練と絶望に出会う事になるのです。人生には様々な試練があります。その試練の中でも父は息子が帰ってくるのを待ち、その愛のゆえにひと時も忘れないのです。神様はどんな時にもひと時も苦しむ息子を忘れないのです。人は例外なく神様の子です。愛されている自分を忘れてはならないのです。
第二に、自己欲の奴隷になっていた息子こそ、すべての人の罪深い現実を教えているのです。例外なく人間は自己欲、自己満足に喜びを求めていきます。その自己欲が、自分を狂わせるのです。神様の愛の心を忘れて自己欲に生きるなら、それは人を破滅させる罪であるのです。
その罪を自覚する時、「我に返る」、すなわち本来の人間性に目覚めるのです。これではいけないと気づき、お父さんの所へ帰ろうとするのです。神様の愛の元に帰って人間性を取り戻せたのです。
第三に、全てのもの、自己を楽しませた金銀を失い、本来の人間性を失って初めて父親の愛を思い出したのです。その父親、すなわち、神様にある平安の「喜び」にある時、その置かれている所にいる限り、真実の「喜び」があり、いかなる環境の変化があっても「神様は何でもできる」という確信が希望となって悲しみを「喜び」に変え、希望が「力」を与え、試練に知恵と勇気を与える事になるのです。目の前が闇のようになろうとも、解決の知恵を生み出すのです。神様の御言葉は闇を光に変えるのです。

「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」        (ヨハネ12:46)

「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」
(詩編119:105)
主イエス様を通して「喜べる」日々が備えられるのです。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」
(フィリピ4:11−13)     




 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ