阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年11月22日
「愛のない世界だからこそ」
ヨハネ13章1節

 今年のアドベントは、11月29日から始まります。もう来週に迫っています。主イエスが神の子救い主としてこの世に来て下さったのは、世界のすべての者が救い主を信じて救われるためです。主は、この世に来られた目的を良く知っておられました。「人の子は失われた者を探して救うために来たのである。」(ルカ19:10)と宣言し、神から離れて迷子になっている者を探して救って下さる。また、ルカ5章32節では、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とはっきり言われています。
19章の御言葉は、ザアカイが悔い改めた時、また、5章の御言葉はレビ(マタイ)を召された時の御言葉です。
「失われた者」とは、いったいどのような者なのでしょうか。それは、おるべき所にいないで、おるべきところではない所にいるという者です。人は、神に愛されている者です。誰でも神の御元にいるべき者なのです。しかし、この世に罪が入り、人は神から離れて罪の中に生き、彷徨(さまよ)う事になってしまいました。おるべきところにいない。神の元にいない。その行く先は、滅びである事を神は哀れんで下さいました。「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され・・・」(エフェソ1:10)という御言葉のように、神様の時が満ちて、神の救いの御業が完成されたのです。
神から離れて罪の中にいる人々をどのように救うのか。神はたった一つの方法を示して下さいました。それがイエス・キリストの十字架の贖いです。主イエスをこの世に遣わされたのが、クリスマスの出来事です。神が人となられた。主イエスは、御自分の使命を良く知っておられました。この地上にある間、神の国について語られ、人々を癒し、永遠の希望を与えて下さったのです。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6−8)これが主イエスのお姿です。なぜそのようにする事ができたのでしょうか。それは、かぎりなく一人一人を愛する愛からできる事でした。
自分を無にする事。僕の身分になる事。人になられる事。へりくだる事。最後まで従順であられた。これが主イエスによって教えて下さった神の愛の表れです。主が十字架に架けられる週の木曜日の夜、主イエスは弟子たちと最後の食事をなさいました。一般に最後の晩餐といわれる出来事です。主は何回もご自分が祭司長や律法学者に苦しめられ、十字架に架けられることを、弟子たちに予告していました。時は刻々と迫っていましたが、弟子達にはその時が迫ってきている時は分かりませんでした。主イエスとイスカリオテのユダだけが分かっていました。「父のもとへ移るご自分の時」が来たことを悟られた主イエスは、全世界の救いのためにご自分が十字架で犠牲になる事を悟られたのです。その時主イエスはご自分の弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたのです。これは、これ以上は愛する事が出来ない、これ以上はないという愛です。
聖書の時代、道路は埃っぽく、普通人々はサンダルのような履物を履いていたので、歩けば足が汚れました。どこかの家に招待された時は、その家の入口に水瓶があって、僕が足を洗い、拭ってくれて家に入りました。この最後の食事の時、弟子のだれかがその僕の役をしたような様子はありません。気付かないのか、自分がそれをする役目ではないとお互いが思っているのかもしれません。主の足を洗おうとは思わなかったようです。そのような中、主は上着を脱ぎ、手拭いを腰にまとい、たらいに水を汲んで弟子の足を洗って、手拭いで拭いて下さったのです。僕の役割です、なぜそのようにされたのでしょうか。
第一、 主イエスが教えられるのは、仕える愛です。仕えるとは、誰かよりも下位の者として、その人に奉仕する事を意味します。王様が、家来に給仕はしません。弟子が主イエスの足を洗う事があっても、本来主が足を洗う必要はありません。然し主は、そのようになさいました。人は、仕えるより仕えられる方が得意かもしれません。主イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)と言われて、徹底して仕える姿勢をとられました。
第二、 主イエスは、謙遜を示されました。謙遜とは遠慮する事とは違います。本当の謙遜とは、まず自分の本当の姿を知る事から始まります。人とは不思議な存在です。自分がどのような人間なのか理解していない事があります。自分は誰かと比べればもっと偉いとか、実力があるとか過大に評価したり、あるいは、自分はダメな人間だとか過小に評価したりして、自分の本当の姿を見失っている事があるのです。自分を他の人の評価で理解することもあります。人に良く思われているかどうかが気になります。人の前にどうあるべきかではなく、神様の前に自分はどのような人間であるかを探らなくてはなりません。人の評価ではなく、神がわたしをどう思っておられるかが大切なのです。  神は私たちをどのように思っておられるのでしょうか。その答えははっきりしています。「私はあなたを愛している」主イエスが最後まで弟子たちを極みまで愛されたように、神は私たちがどのような人間であっても愛しておられるのです。自分で自分を知る。これは大切な事です。弱い所、欠点が多くあるかもしれません。眼をそらさずに向き合い、悔い改める時、それがきよめられ用いられる事になります。
第三、 主イエスは犠牲を払って愛を示されました。十字架の犠牲です。全世界の罪を贖う為の身代金として来られたのです。人が神を知らず、救いを受け入れなければ永遠の命を得る事はできません。人とその罪の関係は切り離せません。罪をもったまま生まれ、生き、召されていくとしたら、こんなに空しいことはありません。罪とは勿論犯罪の事ではありません。生まれながらに持つ、神を受け入れようとしない罪、原罪です。また、聖書にあるように、心の中の自己中心、的外れが罪なのです。心の中の罪が実際に実行された時、犯罪になるのです。心の罪を清める方法を人は持ちません。どのようにしても心を清くすることはできないのです。そして、罪の問題を解決しなければ神の元に帰り、祝福に満ちた人生はおくれないのです。その唯一の解決方法として、主イエスが十字架に架かり、罪の代償を払われたのです。私達が神の元に帰るためには何もする必要はありません。ただ、主イエスを救い主として心に信じ、十字架の死と復活を告白するだけなのです。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:10)救われるための犠牲は主イエスが払われました。また、主イエスだけしか払えない代償でもあります。ただ信じるだけで救われ、永遠の命を頂く。これが主イエスの犠牲の愛です。この世の中は愛が冷えてきています。ますます冷たい世界になっていくでしょう。人を傷つける、命を奪う、人の財産を奪う、騙す事などが当たり前のようになっている世界です。大きくはテロの問題、身近では高齢者をターゲットにした詐欺が後をたちません。どうしてそのような事ができるのでしょうか。愛がないからです。愛が冷えてしまって、自分の肉の欲の為には、人はどうなっても構わないと思う所から恐ろしい事態になります。本当の愛を知っているのは、主イエスを信じ、罪許されたクリスチャンだけです。愛が冷えている世界に、この神の愛を表わせるのはクリスチャンだけです。主イエスの愛を受けた者は愛を表わす事が出来るのです。まず誰にこの愛を知らせますか。聖書は、「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(ローマ13:9)と示し、「愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです」(ローマ10:10)と続いています。まず隣人に対して愛を表わす。隣人とはまだ救われていない家族や友人かもしれません。主イエスが無償の愛をあらわされたように、私たちがそれに倣うなら、神の愛がそこに表わされるのです。神の愛の世界を築こうではありませんか。




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