阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年11月29日
第一アドベント礼拝会
「時が満ちた」
ローマ4章25節―5章8節

 今日からアドベント、待降節に入ります。街中ではクリスマスの飾りつけが目につく時ですが、クリスチャンにとってアドベントは大切な時です。何のために、また、誰のために、主イエスはこの世にお生まれになったのかを考え、思い巡らし、感謝し、待ち望む準備の時なのです。
何事についても、準備ができ、整えられているという事は大切です。心の余裕がなく、備えができていなければ、良い結果を見ることはできないでしょう。聖書も、常に目を覚まし、備えなさいと教えています。
クリスマスを迎えるにあたり、大切なのは心を整え、自分自身の信仰について思いめぐらす事なのです。
先週は、主イエスは全世界を救うために来られたという事をお話ししました。主イエスによって示された愛を学びました。主イエスは、救い主です。この方を信じる者は、罪許され、永遠の命を頂けるのです。
  人は神に創造されました。男と女に創造され、神と共にエデンで生きる者でした。しかし、サタンに騙され、取って食べてはならないという善悪を知る知識の実を食べてしまいました。エデンでは何をしても良かったのです。何を食べても良かったのです。たった一つの約束事、それが善悪を知る知識の実を食べてはならないという事でした。たった一つだけの神の命令を守れなかった人間の弱さを知る事になります。
エデンを追放されたアダムとエバは、「お前は顔に汗してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記1:19)とあるように、人は神に背くという罪のために、神との平和を失ってしまったのです。神はエバをだましたヘビに向かい、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に 私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)と宣言されました。
やがて、お前の頭を打ち砕く存在が現れる、メシア、救い主が勝利されると宣言されたのです。この御言葉は、旧約聖書に一番最初に記されているメシア預言と言われています。サタンは人をだまして、神から引き離し、滅びに向かっていくように仕向けて、成功したようかのように見えたのです。神は、神に背いた人を許さずに、神との断絶が続くに違いないとほくそ笑んだのです。サタンの目的は、人が神と敵対し、救われないことだからです。しかし、神様には神様のご計画があるのです。
神に背いた自分勝手な人間に、救いの計画をお持ちになっていたのです。やがてサタンはメシアによって、徹底的に敗北(頭を砕かれる事)すると言われました。
神は、ダビデの末裔からメシアが来られると約束しているのですが、長い、長い年月がたちました。私達は限られた時間に生きる者です。何事についても、早く、早くと思う者です。しかし神様の時はどのような時なのでしょう。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Uペトロ3:8)とあります。神様には、千年も一日も変わらないという意味です。時間を超える神様なのです。また、詩編90編4節には、「千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」とあります。
神様の計り知れない偉大さと人の小ささを覚えさせられます。
やがて神の救いの日が来ました。定められた時が来て、おとめマリアから救い主イエスが誕生されました。この方によって、人は神との関係を回復する事が出来るようにされました。ローマの信徒への手紙の主題は言うまでもなく、信仰による義認です。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4:5)とあるのです。義とされるという意味は、罪許されたという事です。
罪から解放されて、神の子とされたのです。信仰によって義とされた者は、主イエスにより、神との関係が回復されたのです。神の元に戻れたと考えると分かりやすいかもしれません。キリストによって今の恵みに導かれたのです。
主イエスを信じる人は、本当の意味で幸いな人です。
神の栄光にあずかる希望に生きる事ができます。それが誇りです。
また、苦難を誇る事ができます。もし、信仰がなかったら、苦難に合う時、つぶやきや、行き詰まり、絶望に陥るのではないでしょうか。この苦難という言葉は、「抑圧」という意味です。様々な抑圧があります。自分を苦しめる事態が起きます。迫害、欠乏、貧困、孤独等、聖書の時代も現代も、根本的な問題は同じです。今は老後破産とか、老後貧困とか、孤独といった問題が多くあります。
しかし、キリストを信じ抜く者は、「苦難」が誇りなのです。神の栄光にあずかる希望が誇りであり、苦難が誇りなのです。苦難は忍耐を生むとあります。この忍耐は、ただ耐え忍ぶという意味以上の言葉です。苦難や試練に打ち勝つ心を持つという意味があります。苦難に押し流されるのではなく、事に対処し、打ち勝つ心なのです。忍耐は練達を生み出します。練達とは、火の中で不純な物がすべて取り除かれた金属に用いられる言葉です。混ざりものが一切ない、純粋なものです。
苦難との戦いで信仰者はより聖くされ、より強められるのです。
練達は希望を生むのです。そして、この希望は決して失望に終わる事がありません。今苦しんでいる人がいるなら、この御言葉を信じ、受け入れ、物事を直視し、乗り越える知恵と力を神から頂きましょう。本当に神は生きておられる神である事を体験するのです。
神がキリストをお遣わし下さった理由は、全人類が永遠の救いにあずかる為です。エデンに罪が入り、人は神から離れ、罪の中に生きなければなりませんでした。神はそのような人々が神の元に帰り、命にあずかれるように、十字架という救いをご計画されました。救いの唯一の方法です。主イエスは、神がお定めになった救いの時、「不信心」な者の為に死なれました。弱い、不信心な者の為に十字架に架かってくださいました。不敬虔な者のために、死なれたのです。正しい人とは、神の律法を守る人という意味です。又、善い人とは、他人に対して温かい思いやりを持つ人を表わしています。いずれにしても他人のために命を投げ出すのは困難な事です。
しかし、主イエスはどうだったのでしょうか。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ローマ5:8)のです。罪人のために、十字架によって神の愛が具体的にあらわされたのです。
神が私たちに愛を示す方法が主イエスの十字架でした。わたし達は、この神の愛を知らなければなりません。いくらあなたを愛していると語っても、心を開き、受け入れなければ愛を受ける事ができません。
  もし、知らない親戚の遺産が贈られるという事になったら、私たちはどのような反応を示すでしょうか。神様の愛はそのようなものとは比較できない価値のあるものなのです。神の愛は永遠の命です。
「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)。聖霊が私たちの心に注がれています。聖霊は聖い霊、神の愛の霊です。
クリスマスを迎えるにあたり、神の愛を受け入れましょう。永遠の命を喜びましょう。そして、神の定められた時、救いの時に生かされている恵みを、大胆に証言しましょう。キリストを証ししましょう。
この方による以外に救いはありません。神の愛を喜び、この世のどのような苦難も神の愛によって乗り越えられる事を信じ、素晴らしい
ご降誕を待ち望みましょう。




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